読初(よみぞめ)という季語がある。正月なら一年の計に相応しい「為になる本」や「楽しい本」がよいのだろうが、私が正月に「初読破」したのは怪談話で、浅田次郎著『神坐(いま)す山の物語』双葉文庫である。
舞台は奥多摩・御嶽(みたけ)山の宿坊でもある神官屋敷で、そこは著者のお母様の故郷・実家で、著者が伯母から普通に聞かされていた一昔前の七つの短編物語が収められている。
私は若い頃首都圏に住んでいたことがあるがこの山には登ったことが無かった。ただ、この山からそお遠くない(実はもっと奥に当たる)奥秩父の霊峰三峰山(三峰神社)には2回登ったことがあり、物語に登場する一昔前の山岳信仰や大神(狼・狗)信仰の雰囲気は何となく解ったつもりで・・気持ちから物語に入り込むことができた。
それに小さい頃、私の慶應生まれの祖母はごく普通に「狐に騙された」経験を私に語ってくれていたし、その時代には不思議な出来事も全てある種のリアリティーを持っていたに違いない。
そういう力を特に各地の霊峰は持っていた。
『西の大菩薩嶺に黒雲が湧くと「神様がお渡りになる」と言って雨戸を開け、事実、裏庭が金色に染まり太い光の束が大広間を突き抜けた』というのも信じたい。
と言って、私は現代社会のスピリチュアルの類を信じていない。私を信じさせるなら、その霊力でフクシマ原発の中身を透視し対応策を示してくれるだけでいい。
そんなことはできないが、一緒に人間の非力を悟り自然の力を悟ろうというなら、そんなことをふと反省させてくれる八百万の神仏は私の友である。
一つ一つの不思議な話を合理的に解釈したいというのは私の悪い癖であるが、この物語からその種の詮索をする必要はどこにもないのだろう。
一昔前、霊峰の神官屋敷でこんな話をしていた伯母がいたことは事実そのものらしい。それでいい。小説は面白い。
浅田版遠野物語という宣伝文句も的を射ている。
屠蘇忘れ神気漂ふ本に酔ふ
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