その議論の中では、”どう唱えて豆を撒くか”が話題になった。
となると、そもそも「鬼とは何か!」が問題だが、広辞苑や日本語漢字辞典を摘むと、普通にいう怪物の外に、異形の者や特に秀でている者というのもあって少しややこしい。
市原悦子著『やまんば』という楽しい本があるが、その中で市原さんは、日本昔話に関わって「山姥っていうのは、世の中から見捨てられた人だとか、口減らしで抹殺された人とか、流刑されて山に放り捨てられた罪人とか、そういういろんな人が生き延びている姿だと思うの。だから差別された弱い者なんですよね」と言っている。慧眼ではないだろうか。山姥を鬼と読み替えればいいように私は思う。
余談ながら、確かテレビの生番組では市原さんが「不具の人も」と発言したので、言葉狩りのように司会者が謝っていた記憶がある。
それはさておき、市原さんの言うとおり、村人は善人、山姥は悪人というのが正しいのだろうかという問題がある。
12月30日のブログ記事に書いたことだが、12月28日の朝日新聞『天声人語』に要旨次のような話が綴られていた。
▼福沢諭吉は幼い子どもたちにこう教えた。「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや」
▼退治される鬼に、もしも子どもがいたらどうだろう。
▼相手の側に立ってみれば、見える風景ががらりと変わる。ものごとの複雑さも分かる。
▼自分にとっては正義でも、別の人からすれば理不尽な振るまいかもしれない。忘れてはいけない視点であろう。歴史や国際関係を考えるときも。(引用おわり)
また『過剰反応社会』について11月26日に書いたが、現代社会の深い病に「他人に対して不寛容」「相手の視点に対する想像力の欠如」があり、安倍内閣はそれを煽っていて、その結果起こっているのがヘイトスピーチであったりしないか。
多数派や権力者になびかない者を鬼にして正義を論じていないだろうか。
多数派や権力者になびかない者を鬼にして正義を論じていないだろうか。
そういう思いから私は、このお寺に鬼子母神が奉られていること、鬼子母神は鬼であったが改心して仏の弟子になったこと、そして時代は善人と鬼とを単純に区分けするのでなく、鬼子母神の説話からも「話せばわかる」という教訓を導く必要が大切になっているという主旨で、豆撒きでは「福は内、鬼も内」と唱えたいと提案したが、私の話は難しすぎるとして却下された(笑)。(本論おわり)
お寺が地域に愛されるためには未来ある子どもたちに親しまれる必要がある。
なので昨日、正規の?豆袋の外に子どもの喜びそうなボールを準備した。(一番上の写真)
小さな鬼のシールとお寺の名前を貼り付けた。
子どもたちは何人来てくれるだろうか。
結果はスベッテしまうかもしれないが、こんなことをあれこれダンドリするのは楽しい。
焚きつけも火吹竹も用意した。あとはコンロ担当にお任せするのみ。
もゝたろふけしからないかと諭吉翁
焚きつけも火吹竹も用意した。あとはコンロ担当にお任せするのみ。
もゝたろふけしからないかと諭吉翁
結局「鬼」とは、まつろわぬ者ども、つまりは国家の平定・侵略に屈しなかった者、帰順しない者、盾突いた者どもではなかったか。
返信削除こういう、国家を中心、正当とする二者択一の思想を無批判に是認していてよいものだろうか。
現代のヘイトスピーチや日本会議の動きを見ると、「鬼は外」についても心は揺れる。