2017年11月30日木曜日

維新吉村市長の非常識

 山口一男 シカゴ大学教授・経済産業研究所客員研究員のFbがすばらしいので転載する。
 標題は、『大阪市の決定の反国際性―サンフランシスコ市との姉妹都市関係解消の意味することーーナショナリズムの心理を悪用して、進んで世界から孤立するような意識を植えつけるような政治は本当に辞めて欲しいものだ』

 山口一男 シカゴ大学教授・経済産業研究所客員研究員

 日本を外から見ていて、またもや国際関係上非常識と思われ、国際的信用を下げることが起こってしまったと感じる。慰安婦像設立に関し、大阪市がサンフランシスコ市との姉妹都市関係を解消すると決定したことである。60年の歴史を解消するほどの行為の理由が、米国から見て「女性の人権蹂躙の歴史を記憶にとどめる碑」の設立が名誉を傷つけると日本が主張するという衝撃的事実が、いかに米国での日本のイメージを悪化させるかについて大阪市は考えたことがあるのだろうか。

 慰安婦問題を否定しようとすることで「人権を軽視し、女性差別的な国」という印象を与える日本の自治体の行動が、国際的に「日本の名誉」をかえって損なうものであることは容易に想像できそうなものだが、自国しか見えないのであろう。

 偏狭なナショナリズムは政治を世界に対し盲目にするという例になってしまった。だが慰安婦問題に対し日本政府の主張を支持する米国の有識者は皆無といって良い。親日家を含み米国の有識者での日本への評価は、筆者の観察では日本が慰安婦問題の存在自体を否定するような発言や行動をすればするほど悪くなってきている。将来の日米関係一般にも悪影響しかねない状況だ。

 今回の関係解消について、大阪市長は国内の政治的空気を読んで一種のパフォーマンスをしたのだろうが、歴史評価問題に関し日本の人権意識の低さを国際的に印象付けると言う「負の外部効果」を生み出しただけでなく、サンフランシスコ市内の日系人社会に無用の分断と対立を生み出し、また経済的にも文化的にも発展し続けるサンフランシスコ市という魅力的な都市との交流という大阪市の将来を一時の政治的判断で潰してしまった。その社会的コストは極めて大きいと考えられる。

 もちろん国際的な姉妹都市の関係が極めて有益であるどうかは一概に言えず、大阪市―サンフランシスコ市の姉妹都市関係が今までどれほど有益であったのかどうか筆者は知らない。しかし、シリコンバレーを近くにもち、グーグル社を含めIT関係の会社もひしめくサンフランシスコ市は住民の生活の質(quality of life)指数では全米トップの都市であり、有効活用されれば大阪市との姉妹提携は将来的にも十分日本側にとって恩恵をもたらすはずのものである。

 大阪市は関係解消手続きが今からでもできるなら中止し、さもなくば近い将来サンフランシスコ市に今回の非礼を謝罪した上で、姉妹都市関係を復活させることが望ましい。形があれば有効活用は可能であり、国際親善にもなる。だが一旦関係が解消されれば覆水盆に帰らずとなる可能性もある。信用を培うのには時間がかかるが、不信は一時の誤りでも生まれるからである。それにしても意義のある60年の伝統を、大阪市の利益ではなく市政と本来無関係の政治的理由から破壊するとは、市長の権限の乱用ではないのか。

 また今回の大阪市の抗議は以下の3つの点で筆者は大きな問題があったと思う。

 まず第1に大阪市が、国際的都市間の姉妹関係を政治利用したことである。サンフランシスコ市の決定は基本的に米国の自治体の問題である。当市における慰安婦像設立の提案は長年サンフランシスコ市の高裁判事を勤めた共に中国系米国人のLillian Sing氏とJulie Tang氏を代表とする市民団体の提案に沿ったもので、韓国の直接的政治的働きかけによるものではない。

 今回の提案はあくまで米国の自治体事業であり、それを批判することは、例えて言えば原爆慰霊碑を日本の自治体が作ることに米国の自治体が抗議し、姉妹都市の提携を解消するに近い行為である。これは本来非政治的分野での交流を旨とする姉妹都市関係に政治を持ち込む内政干渉とも言うべき行為で、国際関係上極めて不適切であった。

 2番目の問題は、今回のサンフランシスコ市の慰安婦像設立は、歴史における他の人権蹂躙に関する記念碑同様、その人権蹂躙の事実を記憶し再び同様のことが行われないことを祈願するという普遍主義的立場に立ち、人権問題(Human rights issue)であって、旧日本軍の行為を批判しても、日本批判を意味するものでは全くないのだが、大阪市および日本政府(菅官房長官)は、旧日本軍の制度の批判を日本批判と同一視したことである。

 筆者にはその同一視が大きな問題だと考える。慰安婦制度問題だけではなく、旧日本軍の下では「南京虐殺事件」「沖縄の集団自決」「『玉砕』の強要」「731部隊の人体実験」「戦争捕虜の高い死亡率」など、数多くの人権蹂躙問題が存在した。それは抑圧的な日本軍の規律統制や人命を軽視する価値観のもとで、明日の命も知れぬ戦争という異常事態での多くの日本兵の精神の劣化があいまって起こった特殊な出来事であった。

 それはナチスドイツの特殊な価値観の影響の下で多くのユダヤ教徒や精神病患者の虐殺が行われたのと類似の特殊な出来事であったといえる。ナチス政権の初期に、政府の「優性保護法」の基に精神病院での患者の大量毒殺に直接関わったのは、人の命を救う職業についているはずであるごく普通の医師や看護婦であった。通常「ありえない」と思うようなことが歴史の状況次第で起こりうるのである。

 特に戦争やファシズムの興隆などに伴う人命軽視の価値観や人間性の劣化が、そのような反人道的行為を起こさせるリスクを高めるものという歴史から学んだ認識があり、またそのため将来への戒めとして「歴史の負の側面」を正しく語り続けることが必要とされる。実際ドイツではそうしてきた。だからドイツ人はナチス政権下での人々の行為への批判を、ドイツ民族や文化への批判とも、ましてや自分自身への批判などとは受け取らず、人間社会一般への戒めと受け止める。

 一方ドイツとは対照的に、日本では歴史教育において、上記のような旧日本軍の負の側面を明らかにすることに消極的なまま戦後70年を過ごしてきた。それどころか、かなりの政治家や「保守系」論者たちが、それらの歴史的事実を教育内容に含めることに反対し、それを記憶させようとする歴史学者の態度を「自虐史観」などと呼んで糾弾する現状がある。

 その背後には特殊状況での旧日本軍の行為への批判を日本民族批判ととらえ、それと闘うという宗教的ともいえる社会運動があり、慰安婦問題もそのような状況のなかで政治的に扱われてきた。その圧力が強まる中で、現在慰安婦問題について理性的に議論することも難しい空気が生まれつつある。だから筆者も、この記事の発言をすることは大変気が重い。

 だが大多数の日本人同様戦後の生まれの筆者は、旧日本軍の行いに直接的責任を感じていない。だから慰安婦制度批判を、日本批判と感じないし、ましてや日本人である自分が批判されたようには思わない。日本人として自意識は自分の戦後の日本での体験のみにあるからだ。そして慰安婦制度下の人権蹂躙批判を日本人への批判と感じる日本人の感覚には、自分の娘が「親友が痴漢にあった」と腹を立てている時、娘と一緒に痴漢に腹を立てるのではなく、男性である自分が非難されたように感じて「痴漢事件には冤罪も多い」などと発言をする父親の態度と類似していると感じる。

 なぜ被害者である慰安婦女性の悲惨な経験にまず思いが行かないのか?

 そしてなぜ特定の歴史状況における旧日本軍の非道な行為への批判を、あたかも自分たちが不当に非難されたように感じるのか?

 もし慰安婦の多くが、戦前の大日本帝国下で国民ではあるが植民地であった朝鮮や台湾の女性であるから彼女たちの痛みがわからず、旧日本兵の多くが「本土」の日本人であるから同情するのであれば、日本人の倫理や「思いやり精神」はいつからそんなに民族差別的になってしまったのか?

 現在の多くの日本人のこの問題に対する感じ方は、国内の暴力や差別の問題に対して多数の日本人が示す被害者への同情的な態度と大きく異なるように筆者には思える。これも慰安婦問題を捏造などと論じる人たちの作り出した空気の影響なのであろうか。そうだとすればとても恐ろしいことである。   

 3番目に大阪市の側には論理的破綻があると筆者は考える。大阪市の抗議の理由は、残念ながら正式の文書を筆者は手に入れられなかったが、米国側報道では「慰安婦問題には歴史学者の間でも意見の不一致があり確定していないのに、一面的主張がなされている」という主張であり、日本の報道では碑文に「性奴隷」というような言葉が碑文で用いられるなどが不適切という理由である。

 過去においても、同様の主張は何度もなされ、そのたびに日本側の主張はしりぞけられてきた。部分に異議を挟むことで、全体を否定する議論だからである。それなのに儀式のように日本はそのような論法をかたくなに繰り返している。

 日本のメディアでよく散見するのは、吉田清治の強制連行捏造と関連する朝日の誤報である。これを理由に日本軍の慰安婦制度の存在自体を捏造のように議論する者も少なからずいる。だがこの誤報問題が日本軍に存在した慰安婦制度による女性の人権蹂躙の存在を否定するものでは全くないという知識と認識を米国側は持った上で判断しており、オランダ人慰安婦のケースのように明らかな強制連行の事例もある。

 日本側もそれを承知だから「歴史学者は意見の一致を見ていない」などというあいまいな主張したのであろう。また「性奴隷化(sexually enslaved)」という表現を用いたことに対して大阪市は抗議したようだが、これは言葉の定義の問題であろう。多くの場合、自由意志で辞めることができずに性的行為を強制されていたと考えられるので、「性奴隷化」という表現は英語感覚では不適切とはいえない。

 上記のように日本の抗議理由は碑文の内容が日本に不公平という趣旨で、それだけでは大阪市の抗議は説得力を持たない。なぜなら大阪市は慰安婦像設立自体に反対し、碑文の文章表現の修正を申し入れたわけではないからである。だからサンフランシスコ市は日本の抗議の意図は歴史的事実の否定であると解釈して拒絶したのだ。

 将来日本の若者が世界で胸を張って生きていけるためには、「歴史の負の側面」からも目を背けず、その上で戦後日本が経済復興と繁栄を成し遂げ、特有の魅力ある文化を発展させ、また70年以上の長きにわたって平和を維持し比較的安全な社会を作り出してきたということへの誇りに土台を置くべきである。これらの事実は世界でも高く評価されているからである。

 一方日本は過去25年以上も経済的に低迷しているし、成功体験のある世代は現在の若者の世代が面している厳しさに理解がない。だから多くの若者が戦後の体験をポジティブに語る上の世代に反発し、戦後を否定する考えに同調し、憲法の護持や人権を叫ぶ「リベラル」からはむしろ距離を置くようになった。

 しかし政治において戦前の人命や人権を軽んじた時代を美化し、歴史的事実から目をそむける方向にそういう状況の若者を誘導することは、日本を再び世界では理解不能な「異民族」に戻し、日本の若者から将来国際的に活躍する力をも奪うことである。道が見えにくくなっている若者たちに対し、いわばナショナリズムの心理を悪用して進んで世界から孤立するような意識を植えつけるような政治はもう本当に辞めて欲しいものだ。

 日本社会が、若者たちにとって個々人が大切にされると感じることで希望を持てる社会となり、そこでの身近な経験が自然な愛国心を生み出す。そのような社会の実現を政治は目指すべきである。(引用おわり)

 私には至極真っ当な指摘に思える。
 もしSNSのアドレスを持っていながら記事をあまり更新していない方がおられたら、氏の指摘をコピー・転載でよいから広めてほしい。
 安倍晋三自公政権だからといって、国際的に日本や日本人の信用が落ちるのを喜ぶべきではないと思う。
 自称リベラル派は声を上げよ。

2017年11月29日水曜日

南下せよ

   秋山和枝さんの「満州引き揚げ体験記」を頂戴した。
 昭和の前半に成長し、昭和20年8月に新京市長通達で「南下せよ」と命じられ、1日40㎞の徒歩と野宿の行進などを経て、日本に着いたのは1年3か月後のことだった。
 お父さんがシベリアに抑留されて死亡したなども含め、その苦労の数々が綴られているのだが、著者は文中の何人かのように死亡せず、当然だがそのおかげでこういう体験記を今の世代に残してくれた。貴重なことだ。
 立派な体験記の執筆に頭が下がる。

 この記録の中で私や妻が非常に驚いたことのひとつは、南北を問わず朝鮮の庶民や村の役人が非常に親切で親身になって援助してくれていたことだった。
 「手のひらを反すように虐められた」というような記録が多い中でこれは覚えておく必要がある。

 秋山さんの団はほとんど最後尾の団であったから、何日も前から、先の団が通過していて、あとに次の団が通ることも分かっていた。
 そのため、道の辻に地元の人々の善意の品々。机の上に下駄、草履、足袋、靴下、洗ってある子ども用の物が置いてあり、秋山さんも下駄と足袋をいただいて本当に有難かったと述べておられる。

 さて、「ああ野麦峠」の本を読んだときに驚いたことは、読む前の印象と異なり登場人物が予想外に明るいことだった。
 考えれば当然で、体験を語ることができた方々はみんな丈夫で生き長らえた方々だった。
 だから、こういう体験記の紙面の裏には、体験を語ることさえできなかった多くの(亡くなった方々の)声があることを忘れてはならないとそのとき思った。
 
 今般の秋山和江さんの体験記も同様で、きっとこの文章の何十倍も悲しいことがあったに違いない。
 同じ満州の引き揚げの場面では、ソ連兵が「慰安婦を出せ」と命じ、日本人の団長が寡婦等を説得して「提供」した記録も他に多いしレイプ事件もあった。 
 
 戦後、戦争中のことは一切語らなかった父たちが多かったが、引き揚げ時の闇の部分を語れなかった母や娘も多いようだ。
 記録が少ないということは負の事実が少なかったからではない。負の事実が重すぎるからこそ記録が少ないと理解するのが知性というものだろう。

 そんなことを思うと、二度と戦争はしてはいけないと思うと同時に、同じような苦しみを帝国軍隊侵略先で現地の人々が味わったであろうことに想像力を及ぼさなければならないと思う。
 先日従軍慰安婦のことに触れたが、当時海軍主計士官(将校)だった中曽根康弘元総理が「苦心して土人女を集めて慰安所を造ってやったんだ」と自慢している(終わりなき海軍という本)ことなどに目をつぶって、「もう過去のことだ」という態度をとるのはいけない。

2017年11月28日火曜日

玉造稲荷と富雄丸山古墳

   11月21日の「富雄丸山古墳からの想像」のパート2となる。
 その1、門柱の不思議(不自然)について神職に尋ねたところ、あの門柱は元「府社稲荷神社」であったのを、戦後は官幣大社とか府社というような格付けが無くなったので、「府社」という文字の上に、元々慕われていた「玉造」という文字を張り付けたということだった。

 以前に私は西宮神社の蛭子大神が中央正殿から東殿に移されたことについて、10月24日の「西宮神社で肩すかし」というブログ記事で、「我々は古代史を見ているようで実は近代史を見ている」と書いたが、ここにもよく似た近代史があったのだった。

   その2、この神社には、豊臣秀頼慶長8年奉納の鳥居が写真のとおり日本一低い?鳥居として残っている。
 元々は、摂津名所図会にもあった立派な鳥居であったものだが、平成7年の阪神淡路大震災で倒壊し写真のような形で残されている。これは近代史どころか現代史そのものである。

 その3、「伊勢参宮本街道」の話だが、この神社の少し南西にある分社で1804年に浪花組(後の浪花講)ができ、現在のいう協定旅館制度が発足した。
 旅館には浪花講の看板を上げさせ、旅人にはガイドブックが発行された。
 落語「東の旅」もこれによっている。
   その行程図が次の写真で、今の奈良市に入ってすぐのところに富雄丸山古墳があるから、喜六も清八もこの古墳を見ていたに違いないと前回書いた。

 富雄丸山古墳から玉造稲荷神社へ話は跳んだが、頭の中で楽しい旅ができたような気がしている。

 この前のページは生駒山暗峠前後であるが、その奈良側に鬼取(おんとり)という集落がある。その昔役小角(えんのおづぬ)が鬼を捕えたところである。
 妻の祖先はその近くで旅人に漢方薬等を施していたと生駒市史にあるから、妻は役小角から秘薬を教えてもらった鬼の末裔である。

2017年11月27日月曜日

古代史の勉強ふたつ

   11月25日に文化財保存全国協議会の講演会があり、なかなか面白い内容だった。
 講演のひとつは小笠原好彦先生による『藤原京の造営』で、私の興味でいえばそのテーマは、① なぜ藤原京は、宮(みや)を京(みやこ)の北辺に造る唐・長安型の京(みやこ)にせず、京の中央に宮を造る古い中国の周礼型の京にしたのか。② なぜ藤原京で採用した周礼型の京を次の平城京では採用せず長安型にしたのか。・・だった。
 
 これについてこれまでの通説では、藤原京造営の時代には長安城の情報が無く、当時知られていた周礼によったが、平城京造営時には情報を入手していて、最新トレンドである長安城に倣ったというものであったが、小笠原先生は、白村江の役以前から長安の情報は十分に入っていたはずで、その理屈は成立しないと問題提起された。

 先生の説を端折って言えば、藤原京時代は唐と冷戦状態で、出来るだけ早期に和睦して最新技術や情報を得たい日本にとっては自粛の時代であった。勝手に長安城そっくりの京を造って外交問題(例えば遣唐使を認めない)になるのを恐れた結果、古臭い周礼型京にした。
 平城京の時代はそれが解消されていたので、きっと長安城の略地図ぐらいは手に入れて造営したのだろう。・・というものであった。

 検討の材料が少ないので100%納得できたわけではない※が、事実を積み重ねて「通説」を批判的に検討するのは面白かった。
 ※隋の煬帝が倭の第2回遣隋使の「日出づる国の天子・・」という国書に立腹したというような根拠が欲しいと思う。他国の例でもよいから、外交関係が冷えている期間に中国の京を模して造営し、中国皇帝がそれに立腹した・・に類する史実がないかどうか宿題が増えた気がしている。

 講演の二つ目は寺崎保広先生による『平城京朝堂院』で、これも通説では、聖武天皇の第一次大極殿・朝堂院が恭仁京に移されたりした「彷徨」の後、復都したときに元の位置の東側に第二次大極殿・朝堂院を造ったと理解されているが、発掘(考古学)の事実は、いわゆる第一次の時代に既に第二次の大極殿に当たるところによく似た建物跡がある。
第二次と言われる時代の「第一次朝堂院」の朝庭に盛大な儀式の痕がある。
 よって、朝堂院は当初から東西に二つあった。場合によっては大極殿もそうだったかもしれない。
 そして、東西の違いは、第二次(奈良時代後半)でいえば、公務を行う大極殿と朝堂院は東にあり、朱雀門に面した西の(正面の)朝堂院等(西宮=大極殿的なもの)は儀式や宴会(これも儀式)用の朝堂院であった。・・というもので、これも、見事な通説の批判であった。

 両先生とも、国立奈良文化財研究所で実際に発掘に携わってきた先生であるだけに、その通説批判と問題提起の持つ意味は重かった。
 まだまだ消化不良ながら、楽しい講演会に満足した。

2017年11月26日日曜日

怖ろしい病気の大流行

   年末が近づいてきて私の周辺では怖ろしい病気が大流行している。
 ノロウイルス! インフルエンザ! それもあるだろうが・・・それ以上の怖ろしい病気がパンデミックを起こしている。

 その病気のために、わが町内の餅つき大会も中止になったし、近所の自治会も同様だ。
 あちらでもこちらでも・・・。
 聴くと、あちこちでこの病気が大流行しているようだ。
 その病気とは、ノロウイルス、インフルエンザでもない「責任逃れ病」でないかと私は想像している。
 写真の本の著者、榎本博明氏に言わせると「過剰反応病」である。

 とりあえずの大元は保健所らしい。
 「食中毒でも起こったら大変だから」と、各種団体の問い合わせに対して極めて嫌な顔をして「指導」していると聴く。(※私が実際に聞いたわけではないが、伝聞ではそうらしい)
 保健所がそんなものだから、計画していた団体の担当者が「これでは責任は負いかねる」と尻込みするのも判らない訳ではない。(※前同様)
 ただ穿って見れば、だいたいが言外に「保健所に届けたのに事故が起きたら、そのときは保健所に責任取ってもらいますよ」的なビーム光線を出しながら「相談」するものだから、底意を嗅ぎ取った保健所がそんな罠にかからないよう慎重になるのも想像がつく。どっちもどっちだと私は思う。(※これは私がそう思うということ)

 その結果、「保健所のご指導ご意見」という錦の御旗を押し頂いて、訳知り顔で「私は食品を扱っているが食品は本来的には資格あるプロがするものだ」とか、ありとあらゆる危険性?を披露して、私に言わせると「自分が努力しない正当な理由」をこれでもかと開陳する。それによく似たことは仕事の上でも新しいプロジェクトをスタートさせるときなどにしばしば経験した。(※前同様)

 確かに、原発ではないが、根拠のない安全神話に科学のメスを入れること、安全第一の標語を内容的に徹底するという考えに異議はない。
 ただ私は、安全衛生の美名の裏に、現代社会の悪弊である「責任逃れ病」「過剰反応病」が隠れているように思って仕方がない。
 それには過剰反応で飯を食っているマスコミにも大いに責任がある。
 マスコミのおかげで、社会のあちこちで、信念をもって発言するのでなく、とりあえず誤っておく、とりあえず止めておく・・を是とする風潮があるのは正しいことだろうか。

 そも、餅つきは平安時代前から営々と営まれてきたものだ。
 さらに現代ではマスクもゴム手袋もある。その他の消毒も注意の徹底もやろうと思えばクリアできると私は思う。
 冷静に考えれば常識と気配りで対応できる課題である。
 それでも心配だという方に問いたいが、そうであれば、資格のない主婦・主夫が家庭の食事を作るのも辞めるべきではないだろうか。

 実際、小学校の田植え体験に「泥水は不衛生だ」「小さい子に重労働だ」というクレームが起き、結果として学校が中止したというケースもある。クレーマーもクレーマーだが学校も学校だ。これと同じ構図ではないだろうか。

 榎本氏に言わせれば、常識外のクレームであっても、クレーマー本人は「正義の主張」をしたと思っているところが度し難い。
 この鬱陶しい過剰反応社会の悪夢から脱するためには、常識を再構築する必要があると心底思う。

 餅つきでいえば、要するに担当者全体への徹底という煩わしい仕事はしたくない。
 針の穴ほどの危険性を克服する努力をしたくないということを、「そんなリスクを負えない」というような大層な言葉に置き換えて自分の努力しないことを合理化・正当化しているのだと私は思う。(※前同様)
 さらに、「あそこの団体も中止した」というような恐怖の同調圧力が襲ってきているが、こういう同調圧力は理屈を超えて人を縛っている。しかし、そもそも「みんながそうしているらしい」ということは、それが〝正しいこと”の証明とは何の関係もない

 さて、私は老人ホーム家族会の役員をしている。
 12月の餅つき大会を前にして、やはりこの世間の大病の影響がないと言えば嘘になるが、冷静に真面目に議論した結果、12月の餅つき大会は昨年よりも規模を拡大して実行することを決定した。
 結果責任は全面的に私が取るつもりでいるがそんな大層なことではない。亀の甲より年の劫だと自分を信じている。
 その責任感をひしひしと感じるとともに、日本社会に蔓延しているこの不思議な大病に立ち向かうということに実に愉快な気持ちになっている。

 【※ この記事は、ここ数年私が見聞きしてきた事柄をまとめて書いたものなので、各種団体の誰それがどう語ったかということは表していない。過剰反応社会を考える私の感想を解りやすくするために想像される言葉を記述したものである。故に言葉尻に過剰反応してほしくない。批判があれば本筋でご批判を乞う!】

2017年11月25日土曜日

放棄する〝60年の絆"

   大阪市の吉村市長(維新)が60年の歴史を持つ大阪市とサンフランシスコ市の姉妹都市関係を解消すると表明した。
 サンフランシスコ市が民間団体が建てた慰安婦像の寄贈を受け入れたためである。

 従軍慰安婦問題の維新の出発点は、2013年の橋下徹大阪市長(当時)の記者団への発言だった。
 要旨は、① 日本軍が従軍慰安婦という制度を持っていたことは事実。
 ② 銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命を懸けて走って行くときに、精神的に高ぶっている集団は、どこかで休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのはこれは誰だってわかる。
 ③ ただ、世界各国の軍が慰安婦制度を持っていた。いいこととは言わないけれど、当時はそういうもんだった。それなのに、なぜ欧米で日本だけがそこまで言われなければならないのか。
 ・・というもので、各国の軍に関する事実誤認もあるが、この考えを補足するように、米軍普天間飛行場を訪問した際に司令官に「風俗業の活用」をアドバイスしたが、これには米国防総省報道担当官が「我々の方針や価値観、法律に反する。・・買春によって解決しようという考えは持っていない。馬鹿げている」と一蹴され世界の物笑いになった。

 要するに維新の主張は、児童が先生から叱られたときに「(良くないことを)外の子もやっていたのに何で僕だけ叱られるの」と不満を言う類のことで、あとは碑文や解説文の数字や「てにをは」が気にいらないというものだ。後者だけが問題なら話し合いで解決できる事柄だし、それができないなら地方自治を預かる資質がない。要は人間としての器が小さい。

 しかも、大阪維新が提出した「サンフランシスコ市に再検討を求める決議案」は大阪市議会で否決されているから、全く市長独断の結果がこうである。。
 結局、吉村市長は、大阪市長が抗議すればサンフランシスコ市は折れるだろうと自惚れ、維新の創業者・橋下氏のメンツのために「抗議の書簡を送り続け」たので、「振り上げた拳を下げられなくなってしまったのでは?」(朝日記事の大阪市幹部)というのが的を射た本質に違いない。
 (端的にいえば、橋下徹市長が「慰安婦制度は必要だった」と発言してサンフランシスコ市から発言直後に予定されていた訪問を断られたことを逆恨みして拳を振り上げたというのが話の全て)

 そして私は、その精神に実に嫌な不安を感じる。
 自分たちへの支持を取り付けるために外の敵を作って口汚くののしる。エスカレートさせればさせるほど拳の下ろしどころが無くなる。結局無謀な決断に追い込まれる。というもので、職業生活の中でもその小型版は幾つも見てきたし、近代史を見れば無謀な戦争も同じようなことで停戦の機会をことごとく失い、そうして泥沼にハマっていった。
 現代では、トランプの北向きの火遊びがそうならないことを切に祈っている。

 ちなみにドイツ人がユダヤ人虐殺の記念碑に抗議するような話は聞いたことがない。
 それは現代のドイツ社会とドイツ人がきっぱりとナチスドイツと手を切った。そのように総括したからである。
 それを裏返せば、大日本帝国軍隊の誤りの指摘に対して反発する者は、あの戦時体制を批判するのでなく容認すると意思表示しているようなものである。
 憲法改悪を主張する「維新」の危険性と、さらには精神の幼児性に基づく危険性はそこに繋がっている。

2017年11月24日金曜日

気の長い話ながら

   CWニコルさんの話に確かこんなのがあった。
 「あなたは一所懸命に森づくりをしているが、その森がほんとうの森らしくなったときには、あなたはもういないのでないか・・と尋ねられることが少なくないけれど、私は何百年か後の森を夢見ることができている」という主旨だったと思う。
 
 昨日、タキイ種苗のネット通販を申し込んだ。
 送られてくるのは来年の2月から5月頃で、約30センチの苗木であるから、その木が一人前の庭木になるのは何年先のことだろう。
 成木を造園業者に植えてもらえばすぐにできあがるこの時代に我ながら気の長い買い物だと思っている。

 そもそも、いつどんな病名を告知されても不思議でない年齢になっているから、広告文にあったような美しい姿を私は見られるだろうか。
 しかしニコルさんではないが、来年はこれぐらいにならないだろうか、数年先にはこのようにならないだろうかと、毎年そこにまだ立っていない木の姿を夢みることができる。
 負け惜しみみたいだが、そういうのもけっこう楽しい。

 職業生活現役の頃は、常に期限と目標を気にして、3か月(四半期)乃至1か月ぐらいのテンポ、否、仕事によっては受付から完結までが数日というテンポの生活であったから、(私は結構そういうテンポが好きだったが)、現在の土いじりのテンポは嘘のようだ。
 
 小さな家庭菜園にしても、連作障害のことがあるから、来年はあれを一旦休もうか、再来年には場所を替えてあれを植えようかと夫婦で話し合っているから、気の長い話である。
 読書が過去(古人)との対話なら、土いじりは未来との対話だろう。その未来の半分は夢である。

2017年11月23日木曜日

イルミネーション

   義母の入所している老人ホームでクリスマスのイルミネーションの取り付け作業を行った。
 イルミネーションなんか実にくだらん!との意見もあるが、老人ホームでは折々の刺激が大事である。

 入所者が喜んでくれる取り組みなら何でも大歓迎だ。
 事実、夕食時のひと時、多くの入所者が美しいと喜んでくれている。
 夕食後はほとんどが寝られるから、ホンのひと時だがそれでもいい。

 今年は家族会としてトナカイを2頭寄贈した。
 立体的なトナカイなのでちょっとしたものだし「ええ値」だったが、広い庭に置くとたいしたこともなかった。

 イルミネーションではないが東京ディズニーランドで10㎏近くかつ動きが困難な着ぐるみを着て腕を上げ続けなければならない女性の胸郭出口症候群が労災認定されたと報じられている。
 この国では「ほどほど」という言葉がないのだろうか。
 

2017年11月22日水曜日

ゴミ出し問題

 朝日新聞に、高齢化社会になってゴミの分別やゴミ出しが困難なケースが発生しているという特集があった。
 かくいうわが街も、ゴミの収集方法はゴミステーション方式であるから、ゴミステーションから離れた高齢者の家庭が雨の日などにゴミを出すのには大変苦労されている。
 私は基本的にゴミステーション方式には賛成だが、高齢化社会は予想外のことも生むようだ。

 ゴミステーションのゴミ出しの問題は二つある。ひとつは、烏対策。二つは住民のルール違反である。
 後者についてはこんな田舎でもそうであるから、住民どおしの関係が希薄な大都会ではもっと深刻ではないだろうかと想像する。
 そうなると、結局、有料化で自治体にお願いするようになったりする。

 前者の烏対策で私がつくづく感心するのは、烏は非常にそこの住民の民度を知っているということだ。
 ゴミステーションにはネットがあるが、ネットからはみ出すように出す地域、ネットの掛け方がおざなりの地域をよく知っている。
 反対に言えば、ここは駄目だと考えたステーションには寄り付かない。
 (ということは、やっぱり烏問題ではなく住民の意識の問題か)

  そこで私のステーションではネットの上にブルーシートを覆うようにした。
 ネットの隙間から突くのを防止するというよりも、「ここは駄目だ!」と烏が思う効果が顕著だったと思っている。

   ついでの話だが、このネット+ブルーシートは収集後は少しは整理しておきたい。
 そこで写真のとおり、チェーンとリングで巻き上げて止めておくようにした。
 ここまでしてもホッタラカシの当番の人もいるがそれはしょうがない。

 私はこの記事を怒って書いているのではない。
 基本的にはこんな工作をするのが趣味なのである。
 だから、今度はどのように改善してやろうかと楽しく考えている。
 私も若くて共稼ぎの頃は近所の方々に助けてもらっていたわけで、リタイヤした今はほんの恩返しのつもりであるが、助けてもらっていた街は引っ越し前の街である。それは大目に見てもらおう。

2017年11月21日火曜日

富雄丸山古墳からの想像

   11月19日の富雄丸山古墳の記事から、さらに想像の翼を拡げてみる。
 富雄丸山古墳の築造された4世紀後半というと、いわゆる天皇陵と、それに付随する大規模古墳が狭義のヤマト(桜井市や天理市周辺)から佐紀の地(奈良市北部)に移った時期である。
 定説ではそれは権力そのものが交替したのでなく、築造を担った豪族が替わった、あるいは大王家が新たな土地を開拓したのだろうといわれている。
 要するに当時、現奈良市北部には有力な豪族が栄えていたことは間違いない。
 いわば、東京都千代田区はヤマトのままでも、佐紀の地は新宿区ぐらいの位置だったように思われる。
 富雄丸山古墳は佐紀そのものではないが、その奈良市北部の周辺あたりと言ってもよい場所にある。

   富雄丸山古墳のすぐ後の5世紀になると古墳時代のピークを迎えるが、それが古市・百舌鳥古墳群で、その特徴は「見せる古墳」だと言われている。
 例えば西日本の豪族が首都圏たる大和に向かう場合、彼らをして腰を抜かさんばかりに驚かすという思想があったのだろうという説が有力になっている。
 葺石に覆われた巨大古墳の威容はスカイツリーやハルカスの比ではなかっただろう。

 その根拠は、巨大古墳が難波津から大和に向かう大道(メーンストリート)に見事に沿っていることによる。
 上海や香港、そして西域諸国の現在の大都市に林立するタワーや高層ビルを見るとき、私はそこに古墳時代の思想を見る。

 5世紀のメーンストリートは今の大阪上本町から堺まで南下し、その後、イメージとしては大和川を遡って大和に向かうが、その前の4世紀後半、奈良市北部の豪族たちはどのように難波津と行き来していたのだろうかと想像する。

 で、思いつくのは、後の大仏経由伊勢参りの伊勢街道のイメージである。(古墳時代は河内湖の南岸沿い?または船?)
 これは上方落語「東の旅」が一番のテキストだ。
 いよいよ玉造で見送りの人々と別れ、道は一直線に生駒山に向かい、越えた峠が暗峠、さらに矢田丘陵をひとまたぎして、大和盆地に入ったところが砂茶屋(古老はスナンジャヤと呼ぶ)で、その南方面に「これでもか」と造られていたのが富雄丸山古墳である。
 もしかしたらこの古墳、5世紀古墳の初期の思想(見せる古墳という思想)がここで生まれていなかったか。
 根拠はないがそういう想像も楽しい。

 喜六、清八もきっと見ていたに違いない丸山古墳。残念ながら落語には出てこない。
 写真2枚は大阪から大和見物経由伊勢参りの起点の玉造稲荷神社。
 古墳時代よりさらに以前から勾玉を作っていた先進技術集団がいた。
 19日の記事を書いた後、そんな想像の翼が拡がった。

2017年11月20日月曜日

酒器

   高級品ではないが気に入った酒器を手に入れた。
 写真の左の土瓶である。

 以前に書いた東大寺福祉療育病院のバザーに善意の陶芸家が提供してくれたもので、私が以前から持っていた少し大きい右の酒杯と釣り合っているように思う。

 冷酒で飲むなら瓶から直接注いでもいいというものだろうが、やはり気に入った酒器を通すと同じ酒も旨くなる。

 遠い昔だが、ブログ友達のスノウさんに「料理に器なんか関係ない」と言って顰蹙を買った。
 別のブログ友達のひげ親父さんも器フェチに見える。
 彼らには遠く及ばないし、なにしろ貧乏年金生活者だから贅沢はできないが、これぐらいは妻に許して貰おう。

 和辻哲郎に対する亀井勝一郎の批判にこんなのがあった。「和辻は仏像を美の対象として見るのみで信仰の対象として一顧だにしていない」というものであった。
 その伝でいけば、酒器は戸棚に飾られてナンボのものでなく、実際に使われてこそのものだろう。

 そういうことで、久しぶりに老夫婦で杯をやりとりした。
 「純米 原酒 豊祝」は奈良の酒である。
 
    寒波きて酒器引っ張り出す夜長かな

2017年11月19日日曜日

直径110mの円墳

   写真は11月16日付け朝日新聞だが、富雄丸山古墳が日本一大きな円墳であることが解ったという記事である。
 場所は35年ほど前に住んでいた富雄という地の近くであり、その近くを自動車で行き来していたこともあるが、この古墳のことは全く知らなかった。
 私が趣味で古墳など古代史に興味を持ったのはズーッと後のことだ。

 それにしても、奈良市埋蔵文化財調査センターが4世紀後半(古墳時代前期)と推定し、三次元計測で、直径110m、張り出しを含めると全長120mの円墳というと、そもそも最古級で隔絶した大きさの前方後円墳としてまた卑弥呼の墓ではないかという意味でも有名な箸墓古墳の後円部の直径が約150m、時期が一致する4世紀後半の天皇陵古墳と認められている、奈良市尼ヶ辻の宝来山古墳(伝垂仁天皇陵)の後円部の直径が123mであるから、なかなかの有力豪族の墓であることは間違いない。

 4世紀は中国大陸が分裂時代であったため、3世紀の邪馬台国、5世紀の倭の五王時代と比べて「謎の4世紀」といわれているが、太和4年(369年)銘の石上神宮七支刀もあり、神功皇后の百済侵略などある種激動の時代であったといわれている。
 富雄丸山の被葬者とその後裔の豪族がいったい誰なのか。ゆっくり楽しく検討していきたい。
 西の矢田丘陵を超えると平群(へぐり)氏の地となる。
 奈良市埋蔵文化財調査センターが来年度から発掘調査を始めるらしい。

2017年11月18日土曜日

紋付鳥

♀(雀と姉妹?)
   この小鳥は、私としては冬鳥の代表だと思う。
 寒風の向こうから ヒーヒーヒー カチカチカチ と聞こえてくると如何にもと晩秋を感じる。
 鳴いているときには尾っぽと頭を上下させる

 尉鶲(ジョウビタキ)の別名には、火焚鳥(ひたきどり)、紋鶲(もんびたき)、団子背負い(だんごしょい)、馬鹿っちょというのがある。
 そもそも鶲(ひたき)とはその鳴き声の一部であるカチカチカチが火打石で火を焚く際の音に由来しているから火焚鳥には何の疑問もない。
 紋鶲の紋は背中の白い模様が紋付の紋で文句ない。
 団子はこの白い模様を「団子を背負っている」と見たのだろう。
 よく判らないのは馬鹿っちょだが、結構人懐っこく逃げないから馬鹿者だと書いてある文章があった。
 ただ、引っ付き虫であるオナモミを馬鹿っちょというという方言もあったから、背中に引っ付き虫が二つ引っ付いていると見たのかもしれない。

 Pet Pediaで知ったところ瀬戸内地方の昔話に次のようなものがあった。そこでは紋鶲ではなく紋付鳥(モンツキドリ)と呼ばれていた。

 昔、スズメとモンツキドリは姉妹だった。 
 ある日、母親が重病を患ったと知らせがあった。
 この時、スズメはお歯黒(歯を黒く染める化粧)を塗っていたが、知らせを聞くとすぐさま中断し母の元に向かい、そのためスズメは無事、母を看取ることができた。
 スズメの口元が黒いのはこのときのお歯黒の痕である。

 一方のモンツキドリは、知らせを聞くと、化粧をしたり紋付きを着たりと、身支度に時間を費やしたあと母の元へ向かったので、身支度に時間をかけすぎたモンツキドリは母の死に目に合うことができなかった。
 なので、モンツキドリに激怒した父親は勘当を言い渡し、勘当されたモンツキドリは、今でも頭を下げて父親に謝り続けている。

 いやはや、先人の想像力には舌を巻く。

    寒風に居住まいただすや紋鶲

2017年11月17日金曜日

バッタを倒しにアフリカへ

   光文社新書・前野 ウルド 浩太郎著『バッタを倒しにアフリカへ』。
 虫好きの私としてはずーっと以前から「読んでやろう」と思っていた本だ。
 ただ正直にいうと表紙の写真がいかにも「いかもの臭」く、「大ハズレ」の可能性もあるかもと半信半疑で、大きな期待はしていなかった。
 まあ、書名からして政治がらみの話ではなさそうだし、だから選挙や政局などとは関係なく少し書店に置いておいても賞味期限は過ぎないだろうと長い間パスしていたが、いよいよ購入した。

   予想外に(私が予想していた程には)サバクトビバッタの生態や対策の記事は少なかったが、ファーブルの聖地、南フランス・モンペリエでの感激ぶりなどは楽しかった。
 サバクトビバッタの翅には独特の模様があり、古代エジプト人はその模様はヘブライ語で「神の罰」と刻まれている言うのも新鮮な情報だった。
 さらに山羊の丸煮込みも読んでいて唾が出てきた。
 補足しておけば、圧倒的には、単身、言葉も判らぬままモーリタニアに乗り込んだ研究者の奮戦記でそれはそれで非常に面白かった。

 そして、それこそ私の予想外であったのは、全編を通してのポスドク問題つまり就職浪人や非正規雇用の博士(ドクター)の求職問題(高学歴ワーキングプア)という厳しい現実の悲しい吐露だった。
 そのテーマは決して興味の埒外ではないのだが、まさかこの本の中で熱く語られるとは思ってもみなかった。

 著者は本の最終部分で、京都大学白眉プロジェクト(任期5年、年100万~400万円の研究費)に採用され、その後つくばの国際農林水産業研究センター(JIRCAS・ジルカス)(任期5年、成果を出せば再任→常勤あり)にたどり着くのだが、我がことのようにホッとした。

 それはさておき寄り道だが、一般に朝ドラの立身出世物語は食傷気味だ。そういう意味では特段の出世もしなかった『ひよっこ』は画期的な名作だった。なのに「わろてんか」でまたまた大幅に後退した。BKのこの精神の衰退ぶりは哀しい。寄り道おわり。

 私は既に職業生活をリタイアした年寄りだが、若者のがむしゃらな冒険話には心が踊った。
 そして思ったのは、ポスドク問題ではないが、若者たちに夢を与える施策こそが政治ではないのかということだった。
 国の政治や未来を株式会社の効率の思想で語ってはならないとは内田樹氏の金言だ。
 自民党や維新の政治は亡国の政治でないか。
 株式会社どころではない。お友達の学校には数百億円の補助金、トランプに言われたからとオスプレイ3機342億円、ミサイル迎撃システム(イージス・アショア)2基1600億円、一方に著者のような無収入のポスドク、そして山中伸弥教授が「せめて研究員を常用雇用にしてあげたい」と嘆く国。
 楽しくて後でいろいろ考えさせられる本だった。
 飛蝗(バッタ)の如くも飛翔しなかった私だが、まあ晴耕雨読は楽しい。

    木枯らしに青松虫の屍かな

2017年11月15日水曜日

正倉院の古文書

   11月10日に書いた正倉院展が終わった。
 そこでも書いたが正倉院展は人数が多すぎて古文書をゆっくり読む気分にならなかった。(それが俗人の俗人たる所以だろう)
 さて昨日、小笠原好彦先生から「奈良時代の写経事業と皇后宮職」という講義を受けたので、少し古文書についての素人の感想を書いてみたい。

 一番目の写真は「天平勝宝八歳六月廿一日監物帳」の巻頭と巻末である。
 これを見ると、従二位の藤原仲麻呂、三位永手、四位福信のサインは五位以下とは大きさが全く違う。
 
 私の職業生活の経験からも、だいたい役職によって決裁印の大きさには不文律のようなものがあった。そして、重要書類は印章ではなくサイン(花押)であったから、それもおよそ1300年の歴史だったのかと変に納得した。
 (なお、奈良時代は花押でなく、そのものずばりの署名であった)

   二番目の写真は天皇の決裁である。
 右は天平勝宝9年であるから孝謙天皇の、左のは天平宝字3年で淳仁天皇の決裁で、いずれも「宜(よろし)とサインしている。
 私の経験上は「了」というのはあったが「宜」は知らなかった。
 雲の上ではあったのかもしれないが私は知らない。
 その後、近世や近代の天皇がどういう決裁をしていたのかも興味があるが、ネット検索では出てこない。

 正倉院展に戻るが、写経されたものが展示されていたが皆んな結構足早に読み飛ばしていてもったいない気になった。ただ私の感想を言えば、よく似たものが東大寺ミュージアムで展示されることがあるから、そこでゆっくり読むのがいいように思う。

 東大寺ミュージアムでおかしいのは、お経は基本的に中国語なのだから中国人観光客がよく読んでいるかと言うとそうでもない。
 観光客の興味の問題でもあるが、簡体字で暮らしてきた現代中国人には読み辛いのかもしれないと想像する。
 とすると、台湾人が一番それを読めて、次に日本人、その次に中国大陸の中国人、そして韓国人やベトナム人は余程の学者でないとついていけないかもしれない。

 そういえば私の小学校の教頭先生は「漢字廃止のひらがな派」であった。
 私は文部省の方針で「歴史的に一番漢字を教わらなかった世代」である。
 現代史の本を紐解くと当時の学者は大まじめに「戦時体制の思想と日本語(主に漢文調)の関係」について議論し、「今後はローマ字に統一しよう」とか果ては「国語はフランス語にしよう」と議論していた。
 (漢文調の美文調がものごとの本質を覆い隠し、戦時体制への思想統制に少なくない影響を与えたとの反省から)

   結果としては、私は漢字と日本語を維持してよかったと思う。
 私のような無学なものでも1300年前の文書を何となく読めるのは世界では稀有なことらしい。

 ただ、若い頃にもっとまじめに勉強しておけばよかったという後悔は今さら役に立たない。

    紅葉と鹿とビルと自動車と

2017年11月14日火曜日

核廃絶 バチカンで国際会議

   時事通信によると、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の和田征子事務局次長(74)は11日、核廃絶に関するバチカンでの国際会議で演説し、「核兵器は廃絶しなければならない。製造した人類の責任だ」と訴えた。 
 
 和田さんは1歳の時に長崎で被爆した。母から聞いた話として、爆心地から29キロ離れた自宅の窓ガラスや土壁が粉々になり、連日火葬される犠牲者の数と臭いに誰もが無感覚になったと説明。「人間の尊厳とは何か。人はそんな(ひどい)扱いを受けるためにいるのではない」と強調した。7月に核兵器禁止条約が採択されたことにも触れ「核兵器保有国や日本を含む国々に、条約への署名と批准を訴え続けなければならない」と力を込めた。

 国際会議は、ローマ法王庁の主催で10日に2日間の日程で始まり、各国政府や市民団体代表、ノーベル平和賞受賞者らが参加。創価学会インタナショナルの池田博正副会長(64)もスピーチし、「核兵器は安全保障上の観点からも危険であり、倫理・道徳的にも悪だ。誰の手にあることも許されない」と指摘。すべての人がこうした認識を共有する必要性を訴えた。(時事通信記事おわり) 

 この記事を読んで私は、和田さんの訴えに感動し、ローマ法王庁の真摯な姿勢を尊敬するとともに、創価学会のSGI池田副会長のスピーチに少々驚いた。
 このスピーチが創価学会の本心なら、なぜ公明党は、日本政府の核兵器禁止条約への加入を求めないないのだろうという驚きだ。
 もし、海外(バチカン)と国内で主張を使い分ける「二枚舌」なら言語道断だが、池田スピーチが本心ならば、公明党が創価学会の意向に背いていることになる。

 後者なら、真面目な創価学会員は学会方針に背く公明党の選挙に駆り立てられていることと矛盾がある筈だ。
 憲法改悪が政治課題にクローズアップされている現在、創価学会、公明党の良心が注目される。(この意見はFB上の宮本たけし議員の主張を大いに参考にして記述した)

    ときにあらずも笹鳴きどきから鳴き比べ

2017年11月13日月曜日

介護は誰もの行く末

   昨夜は、老人ホーム家族会の大きなイベントを終えてホッとしている。
 ミュージック・ケアという催しで、その名のとおりミュージックでケアするという。
 音楽療法とは若干違うらしいが、私にはあまりその差異は判らない。

 義母は体がしんどいのか〝もひとつ”だったみたいだが、私の知る限り入所者は私の知っているいろんな行事の中で一番ノッテいたように思う。
 やっぱり、鳴子やベルやスカーフなどで終始〝参加している”のがミソではなかったか。
 この間まで体調の良くなかったAさんは歌とは関係なしに鳴子やベルを思いっきり鳴らしていたが、余程楽しかったのだろう。
 よくある行事では、演奏や踊りをお客さんとして鑑賞させてもらうことが少なくないが、それは〝もひとつ”のように思う。
 写真はシャボン玉だが、シャボン玉がかからないよう必死に除ける人も決して怒ってはいなかった。

 終了後ミュージック・ケアの演者の方々と交流したが、デイサービスを縮小して地域の包括的な支援体制への移行ということで、結局は各地で介護が切り捨てられていっているというのが、各地に出向いておられる関係者の実感のようだった。
 ボランティアでというのも、例えばボランティアで行事中に体調を崩された方が出た際の対策も何もないという当事者の現実の心配も聞いた。

 これらは福祉の話であるが、福祉や教育を「効率」で語ることは百害あって一利なしだと思う。
 「小さな政府」というのを金科玉条の如く語る政党や政治家がいるが、究極の「小さな政府は」独裁国家で、福祉国家はその対極であろう。
 来年度の介護報酬はさらに引き下げられようとしている。
 お友達に不当な値引きをし、トランプにはポンコツ軍事品を言い値で買うという政権が福祉のときだけはお金がないという。
 今のネトウヨは「お父さんお母さんを大事にしよう」とは言わないようだ。

    音楽に足が動いてる介護

2017年11月12日日曜日

アルデンテ

 「富士吉田のうどんは紐みたいに硬いらしい」と、ケンミンショーを観た妻から教えてもらった。
 いつも通りテレビの中のメンバーは「美味い」「美味しい」を連発したようだが、伝聞のせいか私には一向に美味しそうなイメージが湧いてこなかった。

 もうずーっと昔のことだが、大阪に讃岐うどんをバーンと打ち出したその名も「四國」といううどん屋が開店した。
 例によってマスコミは「これぞほんまもんのうどん」と騒ぎ立て、私の周りでも「うどんはやっぱり四國や」という人が続出した。
 しかし正直に言って私はあまり美味しいとは思わなかった。
 伸びたうどんみたいなのは論外だが、私は〝あえて言えば”腰などない大阪のうどんが好きだ。(あくまでも個人の感想です)
 その讃岐のうどんをさらに何倍も太く硬くしたのが「吉田のうどん」だというから、私のイメージでは「どうも」と言いたくなる。

 奈良にミシュランの星をかざした有名なイタリアンがあり、軽いランチなどのためにはそのカフェ部門の店がある。
 そこのパスタも、お客に「どうしましょう」と尋ねるまでもなく結構なアルデンテだった。
 「この硬さの味が判らん奴は田舎もんだ」と言ってるように私は僻んだ。
 正直、美味しいとは思わなかった。(あくまでも個人の感想です)
 ヘナヘナが良いと言っているのではないが、ものごとには程度というものがあろう。
 味の好みなど個人の自由だからそれを美味しいという人がいても全く問題なく、何も私の意見に賛同してくれというのではないが、「あんなに硬いのがほんとうに美味しいの」という素直な感想も言っておきたい。

 テレビの情報番組なるものではやたらに「甘い」を連発し、「美味い」「美味しい」を繰り返すが、何で生の野菜が甘いのか。甘いと美味いは違う概念ではないのか。
 そういえば視聴者はてっきり「情報」だと思って観ているが、それは実は「PR枠」というのがいっぱいあるらしい。
 そして庶民は、情報=真実だと刷り込まれ「自分だけ取り残されたくない」という欲求というか恐怖を煽られているのである。
 アルデンテの話で済んでいるだけならいいのだが、選挙や国政の問題でも同じベクトルが働いているように見えるのは考え過ぎだろうか。ほんとうはこのことを言いたい。

 「これは美味しい」というテレビの扇動に乗ってしまうと、選挙でも「勝ち馬に乗らなければ」という誘導に巻き込まれないだろうか。味も政治も自分自身で判断するのが大事だと言うのは引かれ者の小唄だろうか。
 BSプレミアムに「こころ旅」という番組がある。唯一主人公の火野正平さんがナポリタンやオムライスが大好きだというのには妙に共鳴している。

    一人っ子勝つまでやめない指相撲
    孫の夏ちゃんは年長さんだ。

2017年11月11日土曜日

イクジイの秋

   モクレンとプラタナスの葉っぱでお面を作った。
 
 紅葉と言えば以前に植えていたハナノキはピンクがかった紅葉が見事で自慢だった。
 それがテッポウムシにやられたので二代目の若木を植えたが今度のは紅葉にならない「黄葉」なので、少し騙されたような気になっている。
 若木を植えるとこういう「当てもの」みたいな面白味?がある。

 ともあれ、小さな黄葉の木が一本あるだけで庭が断然明るくなる。
 
 先日からベビーカーで降り難かったテラスに段差プレートを設営した。
 ホームセンターでいろんな材料を検討したが、結局段差プレートとセメントレンガで対応するのが一番廉価だった。
 そのうちに私の車椅子用のスロープになるだろう。

    幼児(おさなご)は木の葉のお面ポイっと投げ
 
 

2017年11月10日金曜日

正倉院展

 奈良が一番賑わう季節、正倉院展である。
 相変わらずの混雑だったので、気に入った数点だけの印象しか書けない。
 解説部分は奈良国立博物館の公式文書である。

 第1は、槃龍背八角鏡 [ばんりゅうはいのはっかくきょう]
   『国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)』に記載されている、聖武天皇遺愛の白銅鏡(はくどうきょう)。外形が八弁をかたどる八花鏡(はっかきょう)とよばれる形式をとる。鏡背面の中心には亀形の鈕(ちゅう)(紐(ひも)を通す孔(あな)のあるつまみ)があり、鈕を囲むように2頭の龍が絡み合う。龍の下部には鴛鴦(えんおう)の遊ぶ山岳があり、そこから飛雲が吹き出ている。龍の上部に配された遠山(えんざん)や、流れる雲の表現から、天空を飛翔する龍の姿が表された図様(ずよう)を示すものといえよう。唐からの舶載品(はくさいひん)と考えられる。
 直径31,7cmという大きさを実感できたのが実際に足を運んだ値打ち。

 第2は、玉尺八 [ぎょくのしゃくはち] 
   『国家珍宝帳』に「玉尺八一管」と記されているものにあたる聖武天皇ゆかりの尺八。玉(ぎょく)と呼ばれているが大理石製と鑑定されている。尺八は本来竹製であるが、大理石を用いながら3節の竹管を忠実に模している。宝庫には北倉に5管、南倉に3管の、計8管の尺八が伝わるが、本品はその中でも最も短い。
 大理石で竹そっくりの尺八そっくりさんを作った。
 竹よりも大理石製の方が値打ちがあると考えたか、職人が「どうだ!」と技を見せびらかしたのか。不思議だ。

 第3は、漆槽箜篌 [うるしそうのくご](漆塗の竪琴) 1
   箜篌(くご)は竪形(たてがた)ハープの1種で、アッシリアに起源があるとされる。古代に中国・朝鮮半島・日本などで用いられたが、中世以降に姿を消した。
 本品は宝庫に伝わる2張の箜篌のうちの一つ。現在大破し残欠となっているが、槽(そう)とその下に続く頸・脚柱部をキリの一木(いちぼく)から作り、頸部にカキ材の肘木(ひじき)を挿し込む構造である。共鳴胴となる内を刳()った槽には、黒漆塗(くろうるしぬり)が施され、革で作った鳥獣文を貼付け、花文や山岳文を彩色するという、華やかな装飾がなされていたとみられる。彩色に使用されていた顔料(がんりょう)から、本品は日本で製作された可能性が高い。
 大破した残欠だったのでイメージが出来なかったが、明治期に製作された模造も展示されていたので素人にはよく判った。写真はその模造品。

 第4は、沈香把玳瑁鞘金銀荘刀子[じんこうのつかたいまいのさやきんぎんそうのとうす]
   全長16.1 把長7.8 鞘長11.2 身長6.2 茎長4.9
 刀子(とうす)は紙を切ったり木簡(もっかん)を削ったりするのに用いる文房具であり、また腰から提()げて腰回りを飾る装身具としても用いられた。
 本品は鞘(さや)を玳瑁(たいまい)で飾った気品ある刀子である。沈香(じんこう)貼りの把は新補。鞘は木胎(もくたい)に金箔を押したうえに、黒い斑()の交じる玳瑁をかぶせて作られており、玳瑁の下に金色がのぞく伏彩色(ふせざいしき)の技法を見ることができる。鐺(こじり)(鞘尻(さやじり)金具)や鞘口には、唐草文(からくさもん)を透彫(すかしぼり)し鍍金(ときん)を施した銀製の金具を取り付ける。刀身(とうしん)は平造(ひらづくり)。鍛(きたえ)は板目(いため)で柾(まさ)が入り、刃文は直刃(すぐは)。茎(なかご)は剣先形(けんさきがた)を呈する。
 私もけっこう文房具が好きな方である。
 刀子はいわば「消しゴム」で、公務員の仕事の中には「書写」の占める割合が大きかった。
 こんなきれいな刀子は役人(公務員)の憧れだっただろう。

2017年11月9日木曜日

ネットで知ったこと

1、AERAdotが週刊朝日の記事(加筆あり)を報じている。
 題して、「小池百合子、前原誠司の失脚の裏に米国政府  在米日本大使館の内部文書を入手」である。

 ゴルフ、最高級鉄板焼き、米兵器の“爆買い”とトランプ大統領の“貢ぐ君”と化した安倍晋三首相。だが、その裏で米国を巻き込んだ憲法改正、野党分断などの日本改造計画が着々と進行していた。本誌が入手した在米日本大使館の報告書に記された米国の本音とは──。
 訪日中のトランプ米大統領は「日本は極めて重要な同盟国だ」と述べ、安倍晋三首相との5回目となる首脳会談に6日午後、臨んだ。

 安倍首相も「日米同盟の絆をさらに確固たるものにしていきたい」と応じたが、11月に発足した第4次安倍内閣の本丸はズバリ、憲法改正だ。

 政府筋は「安倍官邸は単なる93項の自衛隊の明記にとどまらず、『国際平和に貢献するために』という文言を付記して、自衛隊が海外で自由に集団的自衛権を行使できるという解釈にしたい」と明言する。

 元外務省国際情報局長の孫崎享氏も「米国が求めるように自衛隊を海外派遣できる環境づくりに北朝鮮の存在は絶好のチャンス到来だ」との見解を示す。

 総選挙後、在米日本大使館がまとめた内部文書を本誌は入手した。
《改憲勢力が発議可能な3分の2を確保した総選挙結果は米国には大歓迎の状況だ。むしろ米国が意図して作り上げたとみていい。民進党を事実上、解党させて東アジアの安全保障負担を日本に負わせる環境が改憲により整う非常に好都合な結果を生み出した》

 そして《日本が着実に戦争ができる国になりつつある》と分析。こう続く。

《米国には朝鮮有事など不測の事態が発生した時に、現実的な対応が出来る政治体制が整う必要があったが、希望の小池百合子代表が踏み絵を行ったのは米国の意思とも合致する》

 前出の孫崎氏は、166月に撮影されたラッセル国務次官補(当時)と森本敏元防衛相、小野寺五典防衛相、前原誠司前民進党代表、林芳正文部科学相、西村康稔官房副長官、自民党の福田達夫議員、希望の党の細野豪志、長島昭久両議員、JICA前理事長の田中明彦氏らが安全保障について話し合った国際会議「富士山会合」の写真を示しつつ、こう解説する。

「米国の政策当局者は長年、親米の安倍シンパ議員や野党の親米派議員らに接触、反安保に対抗できる安全保障問題の論客として育成してきた。その結果、前原氏が民進党を解体し、同じく親米の小池、細野、長島各氏らが踏み絵をリベラル派に迫り、結果として米国にとって最も都合のよい安倍政権の大勝となった」
 安倍官邸は圧勝した総選挙で、いかにも日米同盟によって北朝鮮問題が解決するかのような幻想を振りまいたが、先の在米日本大使館の報告書には“本音”と思われる記述もあった。

《むしろ、心配な点はイラク戦争に向かった当時と現在の朝鮮有事とでは、比べようがないほど米国民は関心がない。日本や韓国が(軍事)負担を負うことが確実にならない限り、米国は軍事行動には踏み切れないのではないか》

 安倍首相はトランプ氏との“蜜月”を武器に来年秋の総裁選3選を確実にさせ、「当初の東京五輪勇退の意向から、219月の任期いっぱいまで政権を全うする」と周辺に強気に語っているという。

 1110日にも加計学園の獣医学部新設が認可され、安倍首相の「腹心の友」である加計孝太郎理事長が会見する段取りだという。

「森友問題は近畿財務局のキャリア官僚の在宅起訴で手打ちとし年内に両疑惑ともに終息させるつもりです」(官邸関係者)

 そして18年中に国会で改憲発議、19年春には消費増税先送り表明、同7月に参院選と同日の改憲国民投票のシナリオを描いている。

 米国の共和党系政策シンクタンク勤務経験もある外交評論家、小山貴氏はこう怒る。

 「こんなときにトランプ氏とのんきにゴルフをしている安倍首相自体、リーダーとして世界の嘲笑の的です。安倍政権は日米同盟を堅持するため、憲法9条をいじり改憲で自衛隊を海外派遣したいのでしょうが、政策の優先順位が違う。国民生活無視の政治を続けるなら即刻辞めるべきだ。国民を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい」 
(村上新太郎※週刊朝日  20171117日号より加筆)


2、次は東京新聞の「本音のコラム」。こういうのを正論というのだろう。


3、次は私の皮肉だが、トランプは韓国で従軍慰安婦とハグをし、独島エビを食べたが、はてさて安倍君は押しも押されもせぬマブダチではなかったのか。
 ただのポチは韓国には嫌味を言うが、トランプにはキャンと言うばかりらしい。
 私は韓国にもトランプにも抗議などする必要はないと思っているが、あまりに惨めな日本国首相にはほとほと恥ずかしくなっている。
 大マスコミの言うとおりトランプの一番の盟友なら、「違う事は違う」と諫めるのが漢でないか。私の考えとは180度反対だが、少なくともそうでないと漢でないぞ。ああ恥ずかしい。
 (トランプ在日中の)昨日まで、天にも昇ろうかというほどお追従していた日本マスコミの根性ナシぶりにも輪をかけて嫌になる。
 アメリカのマスコミはトランプと闘い、地方選では民主党の勝利が目立っている。
 日本のマスコミは「神国ニッポン」に先祖返りしていないか。


4、最後に、お口直しで動画を見ていただこう。ただのお口直し。


2017年11月8日水曜日

憲法は押しつけ憲法

洗濯物で日向ぼっこのアキアカネ♀
記事とは関係なし
   2016年2月28日「憲法9条 幣原喜重郎が提案」の記事で私は次のように記述した。
 (前段) 安倍首相らは日本国憲法が連合国軍占領下で成立したとして毛嫌いをしているが、もっともっと重要なことは戦後70年間、日本国民がこの憲法を認め積極的に守ろうとしてきたことだと私は思っている。
 だから、憲法の成立過程だけをとって「押しつけだ」「そうではない」と語ること自体に大きな意味はないと考えるのだが、

 (後段) 国立公文書館に保管されていた安倍氏の祖父である岸内閣当時の憲法調査会の録音テープによると、焦点である9条・・戦争放棄については当時の幣原総理が提案したと述べられていた。また同調査会へのマッカーサーの文書回答にも、幣原総理が提案してきて驚いたこと、結局マッカーサーがそれを受け入れたことが回答されている。(再録おわり)

 ところがどうもタイトルと後段の文章には再考が必要かもしれない。というのは、11月5日「日米合同委員会」で紹介した講談社現代新書矢部宏冶著『知ってはいけない』に、「憲法9条のルーツをたどる」というするどい指摘があったからである。その内容を紹介する。

 ⑴ 1941年8月14日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、間もなくアメリカが対日戦に参戦することを前提に「米英が理想とする戦後世界のかたち」を宣言した2か国協定を結んだ。それが大西洋憲章だ。

 ⑵ 翌1942年1月1日、米英は大西洋憲章に基づきソ連と中国(中華民国)を含む26か国の巨大軍事協定を成立させた。その参加国を表す言葉が「連合国」で英語ではUnited Nationsだ。協定の名前は連合国共同宣言

 ⑶ 連合国の勝利が確実になった1944年10月、米英ソ中の4か国は国連憲章の原案であるダンバートン・オークス提案を作成した。

 ⑷ ヨーロッパ戦線がほぼ終了した1945年4月から6月、⑶のダンバートン・オークス提案の条文を基にサンフランシスコで50か国が会議を行い国連憲章が作られた。
 こうして、軍事上の国家連合から平時の国際機関・国際連合が誕生した。
 このため、国連の英語表記は⑵の「連合国」と同じUnited Nationsだ。

 ⑸ 1946年2月、国連では第1回国連安保決議に基づく「国連軍創設のための五大国の会議が始まり、日本ではマッカーサーが憲法案執筆のための3原則を示した。

 ⑹ 以上のとおり、日本国憲法(特に9条)は連合国United Nationsが積み上げてきた議論と考えに沿って作られたものである。

 ⑺ 出発点であった⑴の大西洋憲章第8項はこうである。
 両国は、世界のすべての国民が、現実的または精神的な理由から、武力の使用を放棄するようにならなければならないことを信じる。
 もしも陸、海、空の軍事力が、自国の国外へ侵略的脅威を与えるか、または与える可能性のある国によって使われ続けるなら、未来の平和は維持されない。そのため両国は、いっそう広く永久的な一般的安全保障制度(のちの国連)が確立されるまでは、そのような国の武装解除は不可欠であると信じる。

 ⑻ 以上のような理念でその後の国連軍を含む国連が成長していれば、日本国憲法は未来社会のモデル、世界の国々のモデルになっていたはずだが、冷戦、朝鮮戦争後の戦後世界はそうならず、結局、国連憲章106条の、国連軍が出来上がるまでの間は、安保理常任理事国五大国は、必要な軍事行動を国連に代わって行っていいという暫定条項を悪用して、米軍が日本国を好き勝手に振る舞えるよう安保体制とそれを担保する数々の密約、そして日米合同委員会体制を築いて今日に至っている。

 詳細は是非ともこの本を購入して読んでもらいたいが、憲法前文や各所に⑴から⑷の文言がダイレクトに使われている。

 いわゆる改憲派が「押しつけ憲法」というものだから、いきおい護憲派は幣原喜重郎や鈴木安蔵をピックアップしがちだが、事実は冷徹に事実として見たうえで護憲の論を展開する必要がありそうだ。
 ただ、日本の知識人らが上述の諸文献を知っていて「この論はあなた方自身の主張であったはずだ」とマッカーサーを説得した可能性もあるかもしれないとの想像の余地があるが、可能性でいえばGHQのハッシー中佐らが連合国の当時の基本方針に沿って起草したと考える方が常識的かもしれない。

 憲法よりも上位に位置する安保体制と日米合同委員会の問題は問題として置くとして、差し迫った憲法9条改悪案に対して斬り結んだ論争をする上でいろいろ考えさせられる刺激的な本である。
 講談社現代新書矢部宏冶著『知ってはいけない』。とりあえず現代人必読の書だと思う。

2017年11月7日火曜日

笠餅のフォークロア

   義母に近い親戚の満中陰の法事に出かけた。農村の歴史ある(つまり長く転居していない)農家である。
 宗派は大和、河内に多い融通念仏宗(鎌倉以前の平安末期に成立。総本山は大阪・平野の大念仏寺)。
 まず最初に不思議であったのは仏壇の前に鎮座している座布団状のものだった。
 聴くと、49個の小餅とその上を大きく覆った直径50cmほどの笠状(ピザ生地状?)の餅だった。
 笠餅、あるいは四十九日餅などと言い、宗派特有の宗教儀式というよりも関西地方などの民俗:folkloe(少なくとも仏教民俗学の範疇)というのが正しいようだった。
 ただし、私は初耳だったし、文献で読むのでなく生きた民俗として目の前にあるのに法事を忘れて感激した。
 『新日本風土記』がここにある!と。

   読経と焼香を中心とした満中陰の主要な法要が終わった後、お坊さんがその笠状のお餅を切り分け、それを人形(ひとがた)に並べられた。
 菅笠を被り杖をついた人形は浄土に向かう旅姿だった。
 お坊さんは、人形には何種類かのつくり方があるので「これが正しい笠餅だ」というようにインスタなどにアップしないでと言われた(笑)。

   帰ってから民俗学の本などを引っ張り出すと、この人形になったお餅を吉祥餅とか釘餅というというのもあったが、今般のお坊さんの説明は「自分の病気の箇所や更に強化したい箇所を切り取って食べてください」ということだった。
 なので一番最初に進み出て腰のところを切り取った。

   後追いで文献を見ると古代インドの習俗だとか、故人の成仏祈願だとか柳田國男氏や五来重氏等々も交えて多数の諸説があったが、今般の場合は、こういう仏縁の機会にチャッカリ病気平癒も一緒にお願いする民俗行事のように私には見えた。
 亡くなって僅か49日で吉祥もないものだが、参詣者の病気を除いてくれる、病巣の釘を抜いてくれるというので吉祥餅や釘餅という名もついたのだろうか。
 浄土へ向かう途中で鬼などから釘を打たれる攻撃を受けてもこの餅でふわあっと防禦してくれるというユニークな説もある。

 重ねて言うが私はこの歳になるまで笠餅というものを知らなかった。
 義母の昔語りにも出てこなかった。
 最初の仏前への飾り方や、切り方、そしてそのいわれなどいろいろあるようだ。
 もし笠餅を経験されたりした方がおられたら、教えていただければ幸いだ。
 正真正銘『新日本風土記』の世界だ。

2017年11月6日月曜日

泥仏の開眼供養2

清水公照師の絵の一部
   2日の記事の主人公加藤住職を含む何人かが集まったところ、あの記事の「ネットによる泥仏開眼供養と写真」について大いに話が盛り上がった。
 ちなみに写真については、きちんとしたお勤めを終えた後、私のために何枚も自動撮影をしてくれたそうだ。
 「これが流行ったらお布施が入らない」というような笑い話も含め、みんなが住職に「ようやってくれた」とお礼のような称賛の声を浴びせかけた。
 住職も「お寺に親しんでもらえる一歩になるなら皆んな引き受けるで」と応えてくれた。
 少し無責任な気軽な日常会話だったがそういう風に盛り上がった。

 お寺に関しては私はある意味門外漢なので思い付きのようなことを言うのだが、今般のネットの供養はお寺のイメージを変える気がする。
 私自身はお念仏の文化で育ったせいか、お寺というか仏壇というか、それらにはどうしても陰気臭いイメージが拭えない。主観の話なのでご容赦!
 どうも仏教というと生きる指針というよりも亡き人を偲ぶイメージが濃く付きまとう。
 そのせいか地獄の話も地蔵和讃も好きではない。

 それに対して、各自が好きな仏像を持ち、形式的ではあるが仏らしく開眼の形をとり、それを大事にして日々感謝し真面目に生きようとするのは「前向き」な気もする。
 「何を言うか、だいたい仏教そのものが前向きなものだ」というご批判の言葉もあるだろうが、これは私の印象のことである。
 キリスト教会のゴスペルソングには現実生活への応援があるように感じるのだが、そんなパワーをお寺はどうしたら発揮できるのだろうか。私の言いたいことはここである。

 人生には悲しいこと辛いこともあるから、静かに祈る方々の邪魔にならない範囲で、お寺も明るく楽しい「人生力」を実感できる「ところ」になればいいなどと戯言を書いてみた次第だ。 
 今度会うときにはお供えぐらいは持参するつもり。

 少しだけ似たような話では、登録したお坊さんを葬儀会社が葬儀に「斡旋?」するような試行については新聞紙上でもどちらかというと否定的に論じられている。
 私のブログに度々登場した和道おっさんも強く否定されている。
 葬儀は単なるイベント、「事務処理」ではないんだと。
 その説は非常に真面目で原則的なものだと心から思う。
 だが私には、賛否両意見どちらも判るなあという気がして困っている。
 う~~む。

2017年11月5日日曜日

日米合同委員会

   矢部宏冶著 講談社現代新書『知ってはいけない(隠された日本支配の構造)』を読み終えてから大分経つ。あまりに内容が濃いのでブログ記事にできなかった。
 まあ「下手の考え休むに似たり」という箴言(しんげん)もあるから、その本から教わった日米合同委員会について少し書く。

 日米合同委員会というと、2011年の鳩山内閣崩壊のときに話題になっていた。
 鳩山首相が沖縄の普天間基地の県外・国外移転を考えていたとき、一挙に官僚トップや大手マスコミから激しいパッシングを受けて、「ああ官僚たちは選挙で選ばれた首相ではない、なにかほかのものに忠誠を誓っている」と呟いたこと、それが日米合同委員会であることは赤旗かなんかで読んだことがある。
 だが私も「そういうものかな」程度で済ましていた。

 その日米合同委員会の本会議は日本側6人、アメリカ側7人が出席して月にだいたい2回開かれている。外に30以上の分科会がある。
 本会議の日本側代表は外務省北米局長、代表代理が法務省大臣官房長、農水省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米局参事官、財務省大臣官房審議官。
 米側代表は在日米軍司令部副司令官、代表代理が在日米大使館公使、在日米軍司令部第5部長、在日米陸軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、在日米海軍司令部参謀長、在日米海兵隊基地司令部参謀長である。

 ご覧のとおり、日本側が各省のエリート官僚であるのに対して、米側は大使館公使1人を除いて全員が軍人である。つまり、米国と日本国の委員会ではなく、米軍と日本国の委員会である。
 その歪さは、沖縄返還交渉を担当したスナイダー駐日首席公使が大使に対して「本来なら、ほかのすべての国のように、米軍に関する問題は、まず駐留国(=日本)の官僚と、アメリカ大使館の外交官によって処理されなければなりません。ところが日本における日米合同委員会がそうなっていないのは、ようするに日本では、アメリカ大使館がまだ存在しない占領中にできあがった、米軍と日本の官僚とのあいだの異常な直接的関係が、いまだに続いているということなのです」(アメリカ外交文書1972年4月6日)と激怒していることからも明らかだ。

 この非公開の会合での決定事項が、首相よりも国会よりも憲法よりも優先されて政治は廻っている。
 対米従属というが、正確には「占領中にできあがった異常な国家」、対米軍従属の半主権国家というのが我が国の根本矛盾なのである。
 2012年野田首相がオスプレイの普天間配備について、「オスプレイの配備については、日本側がどうしろこうしろという話ではない」と言ったのは、日米合同委員会を知る当事者としては極めて正直な感想だったのだ。

 知れば知るほど怖くなる「隠された日本支配の構造」。史料の地道な積み重ねには説得力がある。
 このブログをお読みになった皆さん。
 長谷やんに騙されたと思って、講談社現代新書、矢部宏冶著『知ってはいけない』を是非とも購入していただきたい。
 このブログの何百倍も何千倍も内容は濃い。
 イバンカのスーツの色がどうだとか、トランプとのゴルフの料金はいくらだとかというようなニュースに何の意味があるというのか。

2017年11月4日土曜日

標的の村

   三上智恵監督の映画に「標的の村」「戦場ぬ止み」「標的の島風かたか」という三部作があるということだけは知っていたが私は全く観ていない。
 昨日、監督の講演と最新作の上映のチラシが配られたので話題になると、友人たちは「旧作品は観た」「今夜観に行く」「近々観に行く予定だ」という声であり、私の非文化性が明らかになった。

 上映の機会が少ない田舎ということもあるが、結局はわずかなチャンスを見逃してきたのだと思う。

 私が書籍で知っている「標的の村」は写真のものである。
 映画の主題と合っているかどうかは知らない。
 よって、手元の書籍に基づいて以下を書く。

 いま沖縄北部(やんばる)の高江集落をぐるりと取り囲むように6つのオスプレイ用の発着場(米軍と日本政府はヘリパッドと呼んでいる)が造られようとしている。2つは完成済み。
 高江の住民が反対運動をしているが、その理由は単に「近くに造られて迷惑」というようなレベルでなく、このヘリパッドは『高江の住民や家屋を標的(ターゲット)に見立てた軍事訓練をするもの』だからである。

 写真はベトナム戦争時のものであるが、小高い丘の上のまるで貴賓席から米軍の幹部たちが見下ろし、徴用された高江の住民がベトナム人(いわゆるベトコン)の格好をさせられ、その住民を掃討するというゲリラ戦の訓練をしているのだ。

 そして現在も、オスプレイは高江の住民の頭上60m、さらにはそれ以下で日常的に訓練をしている、
 ちなみに日本の航空法では、航空機は地上150m、人口密集地では300m以上と定められている。
 三上監督の映画は、こういった沖縄の現実を記録しているのだろうか。

 これが安保条約というものである。
 自公に希望、維新はこういう安保体制を守るという。
 いわゆる保守の方に問いたいが、これが誇りある独立国家ですか。これを従属と言わずに何というのですか。
 中島岳志氏が「ほんとうの保守は政策では共産党と一致する」と公言されているのも大いに私には肯ける。

2017年11月3日金曜日

憲法発布の日

   今日は文化の日。国民の祝日に関する法律第2条で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日としている。
 私が小さいときは「憲法発布の日」という言葉を聴く方が多かった。
 1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布され、半年後の1947年(昭和22年)53日に施行されたため、53日の方が憲法記念日となっている。

 当時、参議院文化委員長だった山本勇造氏の回顧録では、元々、憲法発布は111日の予定であったが、施行日がメーデーと重なるという理由で直前に113日に変更されたのだという。
 その結果、山本氏ら参議院側は113日を憲法記念日とすることを強硬に主張したが、GHQ側が113日だけは絶対にだめだと言って結局文化の日で落ち着いたらしい。

 GHQ側が反対した背景には、11月3日が明治天皇の誕生日で、明治時代は「天長節」、昭和前期は「明治節」という休日であったためである。
 となると、うがった見方で保守派が明治節に憲法公布の日を合せたのではという意見もあるが、結果として冒頭のとおりの趣旨の祝日となり定着している。

 ところがところが、安倍晋三周辺の日本会議などは「文化の日を明治の日に改称しよう」と運動し国会請願書名などを行っている。
 その趣旨は、『113日は、明治天皇のお誕生日、かつての「明治節」です。この日は、日本国が近代化するにあたり、わが民族が示した力強い歩みを後世に伝え、明治天皇と一体となり国つくりを進めた、明治の時代を追憶するための祝日です。したがって、もともとは現行の「文化の日」などという曖昧な祝日ではありません』というものだ。

 ここには、日清、日露以降突き進んだ軍国主義の反省など全くなく、もちろんアジア諸国への侵略と蛮行の謝罪の気持ちなど欠片もなく、国内的にも基本的人権を踏みにじってきた警察国家を是とするものだ。

   先日の総選挙では自民党は憲法9条を改悪すると述べ、緊急事態条項つまり戒厳令条項を加えると公約した。
 北朝鮮の危機を煽り世論を誘導した結果、いわゆる改憲勢力が3分の2を握ったが、国民の大多数の声は憲法9条改悪を望んではいない。

 そういう国民の声を結集して、今日、東京を始め全国で9条改憲を許さない集会が取り組まれる。
 運動は諦めたときが負けるときである。
 私は午後からの大阪、中之島公園(剣先広場)の「総がかり集会」に、金子兜太・いとうせいこう選「平和の俳句」の大型名札を付けて参加しようと思っている。
 選んだ俳句は次のとおり

  あたたかき孫の手九条あればこそ 浅井安津子
  九条を知らずに眠る凍土の父 遠藤道雄
  声出るもの声あげよこの秋に 寺田美代子
  若者よ銃など抱くな人を抱け 荒木紀理子
  九条で地球まるごと包みたい 金田恵美子
  真夜中に悲鳴を上げる父がいた 小林礼子
  九条を吸って吐いて生きている 金子明
  第九条そらにやすらふ雲雀かな 船津丸守

    憲法を引っ張り出したる文化の日