2017年11月28日火曜日

玉造稲荷と富雄丸山古墳

   11月21日の「富雄丸山古墳からの想像」のパート2となる。
 その1、門柱の不思議(不自然)について神職に尋ねたところ、あの門柱は元「府社稲荷神社」であったのを、戦後は官幣大社とか府社というような格付けが無くなったので、「府社」という文字の上に、元々慕われていた「玉造」という文字を張り付けたということだった。

 以前に私は西宮神社の蛭子大神が中央正殿から東殿に移されたことについて、10月24日の「西宮神社で肩すかし」というブログ記事で、「我々は古代史を見ているようで実は近代史を見ている」と書いたが、ここにもよく似た近代史があったのだった。

   その2、この神社には、豊臣秀頼慶長8年奉納の鳥居が写真のとおり日本一低い?鳥居として残っている。
 元々は、摂津名所図会にもあった立派な鳥居であったものだが、平成7年の阪神淡路大震災で倒壊し写真のような形で残されている。これは近代史どころか現代史そのものである。

 その3、「伊勢参宮本街道」の話だが、この神社の少し南西にある分社で1804年に浪花組(後の浪花講)ができ、現在のいう協定旅館制度が発足した。
 旅館には浪花講の看板を上げさせ、旅人にはガイドブックが発行された。
 落語「東の旅」もこれによっている。
   その行程図が次の写真で、今の奈良市に入ってすぐのところに富雄丸山古墳があるから、喜六も清八もこの古墳を見ていたに違いないと前回書いた。

 富雄丸山古墳から玉造稲荷神社へ話は跳んだが、頭の中で楽しい旅ができたような気がしている。

 この前のページは生駒山暗峠前後であるが、その奈良側に鬼取(おんとり)という集落がある。その昔役小角(えんのおづぬ)が鬼を捕えたところである。
 妻の祖先はその近くで旅人に漢方薬等を施していたと生駒市史にあるから、妻は役小角から秘薬を教えてもらった鬼の末裔である。

6 件のコメント:

  1.  私も独身の頃、富雄の学園前宿舎に5年ほど住んでいましたが、古墳がありそうな場所ではないと思いますが宿舎の近くですか?地図を拡大して探してみましたがよう見つけませんでした。お伊勢参りする道があったことも全く知りませんでした。それと、奥様が鬼の末裔であれば、きっと童話に出てきそうな可愛い鬼の末裔だと思います。

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  2.  富雄川沿いに大和郡山方向に南に行くと霊山寺があり、その先が砂茶屋で伊勢(奈良)街道との交差点です。その少し南西に富雄丸山古墳があります。住宅地の名前が丸山です。今回の調査で日本一の大きさの円墳と判って注目されましたが、それまでは誰も注目していなかったのだろうと思います。
     後段の件ですが、私はまぎれもない鬼の末裔だと信じています。その片鱗はそこかしこに見られます。おお恐!

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  3.  バラやん、言い忘れましたが、追分梅林や矢田丘陵の遊びの森などに行かれたことはないでしょうか。もし行かれたとしたらその道が伊勢街道・奈良街道です。

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  4.  グーグルマップを見て思い出しました。宿舎の南方に富雄丸山古墳があった事が分かりました。矢田丘陵の遊びの森は自転車で行った様に思います。第二阪奈道路は無かった様に思います。四十数年前を思い出させていただき有難うございました。

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  5.  有難うございます。私の言った以前というのは真田山辺りに住んでいた頃のことで30年程前のことですから神職の言うことからすれば話が合いません、やはり私の記憶違いということでしょう。しかしこれだけのインパクトのある(門柱に貼り替えた)物なら記憶に残っているはずですが不思議です。

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  6.  ひげ親父さんの感想に同意します。私も玉造稲荷神社に行ったのは何も今年が初めてではありません。そしてひげ親父さん同様「けったいやなあ」と思った記憶はありません。きっと「地震かなんかで文字が欠けたので修理したのだろう」と勝手に結論付けて納得(スルー?)していたように思います。
     10月24日に西宮神社の神職の話を書きましたが、あれも神職の話を「ああそうですか」と聞き流していたら気付かない問題意識だと思います。
     「あれ、おかしいな」と思うということが大切なのでしょうね。

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