秋山和枝さんの「満州引き揚げ体験記」を頂戴した。
昭和の前半に成長し、昭和20年8月に新京市長通達で「南下せよ」と命じられ、1日40㎞の徒歩と野宿の行進などを経て、日本に着いたのは1年3か月後のことだった。
お父さんがシベリアに抑留されて死亡したなども含め、その苦労の数々が綴られているのだが、著者は文中の何人かのように死亡せず、当然だがそのおかげでこういう体験記を今の世代に残してくれた。貴重なことだ。
立派な体験記の執筆に頭が下がる。
この記録の中で私や妻が非常に驚いたことのひとつは、南北を問わず朝鮮の庶民や村の役人が非常に親切で親身になって援助してくれていたことだった。
「手のひらを反すように虐められた」というような記録が多い中でこれは覚えておく必要がある。
秋山さんの団はほとんど最後尾の団であったから、何日も前から、先の団が通過していて、あとに次の団が通ることも分かっていた。
そのため、道の辻に地元の人々の善意の品々。机の上に下駄、草履、足袋、靴下、洗ってある子ども用の物が置いてあり、秋山さんも下駄と足袋をいただいて本当に有難かったと述べておられる。
さて、「ああ野麦峠」の本を読んだときに驚いたことは、読む前の印象と異なり登場人物が予想外に明るいことだった。
考えれば当然で、体験を語ることができた方々はみんな丈夫で生き長らえた方々だった。
だから、こういう体験記の紙面の裏には、体験を語ることさえできなかった多くの(亡くなった方々の)声があることを忘れてはならないとそのとき思った。
今般の秋山和江さんの体験記も同様で、きっとこの文章の何十倍も悲しいことがあったに違いない。
同じ満州の引き揚げの場面では、ソ連兵が「慰安婦を出せ」と命じ、日本人の団長が寡婦等を説得して「提供」した記録も他に多いしレイプ事件もあった。
戦後、戦争中のことは一切語らなかった父たちが多かったが、引き揚げ時の闇の部分を語れなかった母や娘も多いようだ。
記録が少ないということは負の事実が少なかったからではない。負の事実が重すぎるからこそ記録が少ないと理解するのが知性というものだろう。
そんなことを思うと、二度と戦争はしてはいけないと思うと同時に、同じような苦しみを帝国軍隊侵略先で現地の人々が味わったであろうことに想像力を及ぼさなければならないと思う。
先日従軍慰安婦のことに触れたが、当時海軍主計士官(将校)だった中曽根康弘元総理が「苦心して土人女を集めて慰安所を造ってやったんだ」と自慢している(終わりなき海軍という本)ことなどに目をつぶって、「もう過去のことだ」という態度をとるのはいけない。
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