2017年11月27日月曜日

古代史の勉強ふたつ

   11月25日に文化財保存全国協議会の講演会があり、なかなか面白い内容だった。
 講演のひとつは小笠原好彦先生による『藤原京の造営』で、私の興味でいえばそのテーマは、① なぜ藤原京は、宮(みや)を京(みやこ)の北辺に造る唐・長安型の京(みやこ)にせず、京の中央に宮を造る古い中国の周礼型の京にしたのか。② なぜ藤原京で採用した周礼型の京を次の平城京では採用せず長安型にしたのか。・・だった。
 
 これについてこれまでの通説では、藤原京造営の時代には長安城の情報が無く、当時知られていた周礼によったが、平城京造営時には情報を入手していて、最新トレンドである長安城に倣ったというものであったが、小笠原先生は、白村江の役以前から長安の情報は十分に入っていたはずで、その理屈は成立しないと問題提起された。

 先生の説を端折って言えば、藤原京時代は唐と冷戦状態で、出来るだけ早期に和睦して最新技術や情報を得たい日本にとっては自粛の時代であった。勝手に長安城そっくりの京を造って外交問題(例えば遣唐使を認めない)になるのを恐れた結果、古臭い周礼型京にした。
 平城京の時代はそれが解消されていたので、きっと長安城の略地図ぐらいは手に入れて造営したのだろう。・・というものであった。

 検討の材料が少ないので100%納得できたわけではない※が、事実を積み重ねて「通説」を批判的に検討するのは面白かった。
 ※隋の煬帝が倭の第2回遣隋使の「日出づる国の天子・・」という国書に立腹したというような根拠が欲しいと思う。他国の例でもよいから、外交関係が冷えている期間に中国の京を模して造営し、中国皇帝がそれに立腹した・・に類する史実がないかどうか宿題が増えた気がしている。

 講演の二つ目は寺崎保広先生による『平城京朝堂院』で、これも通説では、聖武天皇の第一次大極殿・朝堂院が恭仁京に移されたりした「彷徨」の後、復都したときに元の位置の東側に第二次大極殿・朝堂院を造ったと理解されているが、発掘(考古学)の事実は、いわゆる第一次の時代に既に第二次の大極殿に当たるところによく似た建物跡がある。
第二次と言われる時代の「第一次朝堂院」の朝庭に盛大な儀式の痕がある。
 よって、朝堂院は当初から東西に二つあった。場合によっては大極殿もそうだったかもしれない。
 そして、東西の違いは、第二次(奈良時代後半)でいえば、公務を行う大極殿と朝堂院は東にあり、朱雀門に面した西の(正面の)朝堂院等(西宮=大極殿的なもの)は儀式や宴会(これも儀式)用の朝堂院であった。・・というもので、これも、見事な通説の批判であった。

 両先生とも、国立奈良文化財研究所で実際に発掘に携わってきた先生であるだけに、その通説批判と問題提起の持つ意味は重かった。
 まだまだ消化不良ながら、楽しい講演会に満足した。

2 件のコメント:

  1.  小笠原先生の 藤原京が平城京のように北闕形の唐の長安城の構造をとらず、「周礼」型をとったのは、唐に気を遣ったから‥みたいな話。分かったような分からないような。
     確かに、当時(天武天皇)最先端を走る唐の制度や都城を取り入れたい日本が、「冬官考工記」の理想の都である「周礼型」といえど、中国にも実在しなかった都城形態を採用したのは不思議。
     白村江の戦いに敗れた後、唐や新羅が攻めてくるのでは‥と、天智天皇が九州に水城を作ったり都を近江に移したりしたのは有名な話で、その後、唐と新羅がもめて、日本に攻めてくる心配が無くなって一安心。でも、遣唐使の派遣が30年以上中断して、新羅経由で唐の情報が入ってきたとはいえ、直接唐からの情報が入ってこなかったので、律令国家の建設を急いでいた日本は中国都城の理想型の「周礼型」を採用したという従来の考えも←それだけか?という気がします。
     ネットで色々見ていたら、平城京を作ることができたのは、遣唐使の粟田真人の情報と総合プロデューサの藤原不比等の手腕があったからだとかいうのがありました。それと、長安城とそっくりの平城京が長安城の4分の1の面積なのは唐に気を遣ったのだ‥というのも(-_-)。あははです。
     天武天皇から持統天皇へと継いで作られた藤原京。それなのに短期間で捨てられてしまった。発掘調査で、都の資料が出ればもっと色々なことが分かるのにと思ってしまいます。

     寺崎先生の平城宮の朝堂院の話、面白かったです。奈良市に住んで30年以上経過しているのに、平城京跡に行ってみたのは退職後。それも、うろうろ歩いたのは1度だけです。
     奈良時代の前期と後期で大極殿の位置が違った(えー!復元されている大極殿は第1次大極殿なの?)とか、朝堂院が元から2カ所あったとか。発掘したら、下層は掘立柱の建築で上層は瓦葺き礎石建の建築だとか。奈良時代後半の平城宮は藤原宮と同じ北から内裏→大極殿→朝堂院→朝集殿院の順になっていたとか。お話を聴いた後、平城京跡を歩いてみたくなりました。先生の話には無かったような気がしますが、第2次朝堂院の南にあった朝集殿院の東朝集殿が唐招提寺の講堂として移築されていたとか。唐招提寺にも行かなくては!

     で、小笠原先生の古代史講座を今年の初夏から聴きに行くようになりましたが、先生は話したいことが沢山あるのか、話題が次々と移っていって、ぼーっと聞いていると結局何を話されていたのか分からないということがよくあります。できれば、事前にタイトルをヒントに勉強しておいた方が良いですね(^_^)。

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  2.  前回は、ぐだぐだ書いた感想で、お恥ずかしい(>_<)。
     藤原京の周礼型について、鳴門教育大学の木原克司氏が奈文研の金子裕之氏の「平城京における長安城の影響」へのコメントの中に書いてありました。当時、唐からの情報は入って来なかったが、新羅とは頻繁に行き来していて、新羅の都城慶州の構造は規模や造営尺の上で藤原京と類似点が見られ、藤原京のルーツを慶州に求めることも不可能ではないように思える‥とか。
     色々な説があって面白いですね。
     長谷やんのブログ、色々勉強になるので、また見に行きます(^_^)v

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