10月4日の朝日川柳にこうあった。
わが人生最後の投票白い紙 というものだ。
その心は、あまりの政治の混沌にいよいよもう白紙=棄権しかないと思い至った嘆きと怒りなのだろう。
だが、この川柳に似た川柳は選挙のたびに見たような気がする。いや、聞き飽きた。
そして、「川柳ごときに何を引っかかる」との批判もあるかもしれないが、私は、川柳の特質が社会詠にあるとすれば、もっと眼を見開いて社会を批評すべきではないのか、選者もこの程度の批判を批判と思ってどうする!と違和感を覚えるのだった。
だいたいが、選挙のたびにテレビが映す街の声が「政治なんか信用できん」「誰がなっても同じやろ」で、それが為政者に対する庶民のホンネで批判だ的に繰り返されるがそのステレオタイプは正しいのだろうか。
端的に言って、そういう風潮に流されて「白い紙」(棄権)を投じてきたしわ寄せが現代社会の閉塞感をつくってきたのではないのか。
内田樹氏と姜尚中氏の対談にこんな件(くだり)があった。(要旨)
姜 東条英機の戦陣訓だったかを聞いていたどこかのおじさんが「ばっかじゃなかろか」と言った。(司馬遼太郎が)それこそが庶民の健全性だと讃えている。ああいうところはわかりやすくて、司馬さんというのは関西の人だなと思いますね。
内田 でもね、最近誰かが言っていたのですけれど、司馬遼太郎と田辺聖子という二人が登場したことで、生活感覚ですべて切り捨てるというある種の批評性が確立されてしまった。そのせいで日本は悪くなった、と。
姜 悪くなったと言ったの?
内田 ええ(笑)。きれいごとというか、学級委員的な正論というか、そういう青臭い論に対して「ばっかじゃなかろか」と笑い飛ばす大阪的な「本音主義」の基盤を作ったという。
内田 司馬、田辺から、橋下、松井一郎に至るラインです。
内田 大阪の生活人的な批評性の良質なかたちが司馬遼太郎と田辺聖子だとすると、その劣化したかたちが、維新の反知性主義だということは言えると思う。あれは大阪の文化的深層に根を持つものですから。
内田 権威とされているものを引きずりおろして、それを笑いものにするという批評のかたちは、生産的に働くこともあるし、単なる道徳的ニヒリズムに堕すこともある。
内田 関西人は「リアリズムという幻想」に弱いんです。だから、松井や橋下のような人たちがブラックな本音を剥き出しにすると「ああ、これが真のリアリティーなんだ。偽善者たちが包み隠している真実を彼らは可視化してくれているんだ」と思ってしまう。
姜 実はそれもまた虚構なんだと思いますけれどね。
姜 大阪人のリアリズムとは本質的に違うとは思いますが、やはり僕は、この10年ぐらい、自己責任と同じような、嫌な本音主義みたいなものが日本を覆い始めているような気がします。(引用おわり。要旨抜粋したので詳しくは「アジア辺境論」集英社新書)
大阪の文化的深層に根を持つ私が言うのもなんだけれど、大阪は、1953年レッドパージ後最初の衆議院選挙で共産党唯一の議席川上貫一を当選させ、1973年参院補選自共1対1対決で沓脱タケ子を当選させた地でもある。黒田革新府政もあった。
ここには、維新的反知性主義も「白い紙」的ニヒリズムもない。
大阪に絞って語ると、今般の総選挙で共産党は、近畿比例区で宮本たけし、そして必勝区の3区でわたなべ結、4区で清水ただし、5区で北山良三らを先頭に奮闘している。
大阪の生活人的な良質の批評性が目に見えるようにしたい。
尾花活けカーテン閉めぬ良夜かな
芒刈り盗人萩が付いてくる
盗人萩には この秋悩まされました
返信削除手入れを全くしないお隣の庭から
我が家の庭にドンドン伸びて
服にくっついて困りました
皮膚にふれた処はかぶれて 痒くてたまりません
お花は可愛いのに 困りものです
わこたん、コメントありがとうございます。
返信削除先日、ある公園内のレストランで、盗人萩の花壇が造られているのには驚きました。確かに開花期は綺麗なものです・・が、こんなのアリでしょうか?
老人ホームの草刈りのボランティアのとき、女性が髪の毛から全身まで覆い尽くされたことがあり、ほんとうに大変でした。
芒刈りのときも注意していたのですが大変でした。
生活感覚というのは久しぶりに聞きました。司馬遼太郎のことですが、彼の小説には小説でない文体が出てきます(いわゆる司馬遼太郎節と呼ばれるもの)。『燃えよ剣』でも、急に全共闘のたとえがでてくるといったような、作者の解説が入ります。小説の美学に反していると思いますが、読者は案外喜ぶのかもしれません。私はあまり好きではないのですが...
返信削除横山ノック氏も知事を務めましたが、知事職にあるかぎりは本音主義ではなかったですね。それがだんだん崩れてきましたね。橋下氏はユーモア感覚が全くないのですが、あの人が大阪から出てきたという点に「笑いの大阪」の転回点を感じます。松井氏はもう少し大阪っぽい。でも、根本的に、大阪の街から優しさが失われたと感じます。これは単なるノスタルジーなのでしょうか。
大阪の笑いの転換点というようなテーマについてはひげ親父さんが詳しいように思いますが、人生幸朗・生恵幸子のぼやき漫才あたりは良質だったように思います。転換点は吉本芸人のトーク番組、コメンテーター起用、ケンミンショーあたりかも知れません。
返信削除少し面白いテーマなので皆様の気軽なご意見をいただきたいと思います。
そうそう、今東光、花登筐あたりも結果論としては罪深いかも知れませんね。
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