2015年12月9日水曜日

五木寛之の共犯意識

  五木寛之氏が本の中で次のように語っているのを感慨深く読んだ。
 「あのときの南京陥落に対する日本人の興奮の仕方を思うと、自分もその一人として(提灯行列の)列の中にいたんだから、軍部だけが暴走したということではないと思えるんです。大陸にいる軍部の青年将校だって馬鹿じゃない。内閣は制止したのに現地の軍部が独走したといわれるけれど、それは大きな国民的感情の支持があることを、軍が無意識に体で感じているからですよ。国民は自分たちに期待している。もっと多く土地を取れ。もっと積極的に進軍しろ。そういう日本国民全体の無言の共感が自分たちの背中にかかっている。内閣は何と言おうと関係ない、国民はわれらに期待している、そういう感じで動くんだから、軍部を動かしたのは日本のわれわれ国民だと思うし、国民というのは僕ら自身なんですよ。」と。

 鶏が先か卵が先かは別にして、マスコミがワンフレーズで市民を煽り、市民は「何でもいいから現状を破壊してくれ」と熱狂する。そうして、あえて言うが橋下維新は市民の支持を得た。だから、各級労働委員会で負けようが各級裁判所で負けようが、彼らは「進軍」する。
 
 先日から執拗に熱狂する市民のことを考えている。
 それは取り越し苦労だ、一時的に橋下の扇動が功を奏しただけだ、大局的には社会は必ず進歩するから心配するなとおっしゃるならそれでも良いが、私は市民は単に騙されたのではなく、積極的に橋下維新の破壊を推進することを正義だと信じて熱狂したように感じている。

 もし、ジャーナリストではなく海外勤務等の企業従業員がテロの犠牲になったときにこの国は冷静な議論が可能だろうか。空爆積極支援の「提灯行列」はあり得ないだろうか。その空爆下で多くの子どもが死んでいっていると言うだけで「国賊」にされてしまうような幼稚な社会を私たちは十分に克服しているのだろうか。

 フクシマの事故の後、「こんなに危険だとは知らなかった」「知らされていなかった」と『無知に基づく無罪』を大合唱した市民にはほんとうに責任がないのだろうか。
 現代社会の共犯意識の欠落という問題は大切な課題だと思う。
 フランス地方選挙での極右政党の大躍進を冷静に考えてみたい。

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