2015年12月4日金曜日

パパラッチ

 パパラッチの原意は「ぶんぶん飛び回る虫」ということらしい。ダイアナさんの悲劇からも長い年月が経過した。
 しかし相変わらず極東の国ではパパラッチ的報道がますます盛んなように見える。
 「有名人にはプライバシーはない」という不文律はどういう理屈なのか私には判らない。
 問題だと私が思うのは、それが芸能人のスキャンダルだけでなく、多くの政治課題の報道姿勢にも反映していないかということである。
 
 以前に妊産婦がたらい回しにされて亡くなった事故があった。報道各社はこれでもかというほどに医師や病院を非難するキャンペーンを張った。
 当時私は仕事上医師の先生方と度々お会いしていたが、その事件の被害者は全く医師にかかっていなかったことなど公平で冷静な問題提起になっていなかったことを嘆いていた。
 質の悪い交通事故で子供が犠牲になった事件もあった。事件そのものは悪質で親たちの嘆きは尋常ではないだろう。しかし、この国は法治国家である。マスコミがこぞって「犯人を縛り首にしろ」ばりの報道をするのは如何なものかと私には違和感が残った。

 夕刻の報道番組のコーナーにも、パパラッチに似た手法で街の「おかしな人物たち」を告発し憤懣をぶちまける番組がある。特にテレビは何秒の世界でそれを表現するから、違う角度から見ればこうでもあるがとか、別の角度から考えるとこうでもあるというような余地を残さない。
 蛇足ながらそれらの憤懣は社会の巨悪はスルーする。
 相手は、少し「外れた」弱者(なのだと思われる)であるから、彼らを叩いても反撃の心配はない。
 こうして市民は、パパラッチ同様の報道に同調して「弱者」を叩いて痛快な感覚を享受する。

 そういう延長線上に橋下氏の虚言、扇動があった。
 少なくない支持者はW選挙の渦中で「主人公」になり痛快感に満たされていたのではなかったか。
 自民党の選挙態勢云々よりも、こういう熱狂するクレーマー社会の分析の方が大事なような気がする。

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