行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
方丈記というと、はかない無常感と解されたりするが、私は冷静な弁証法的世界観に通じているように思う。
だから、伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、憐れみをもちて国を治め給ふ。すなはち、殿に茅葺きても、軒をだにととのへず。煙の乏しきを見給ふ時は、限りある御調物をさへゆるされき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。も、一見、アナクロな夢想に思えるが、それは「奴隷の言葉」であって、当時の現政治・現為政者に対する告発文だと私は思う。
それにしても、800年前の言葉の新鮮さというか、800年後の現代社会の後進性にため息が出るが、そこでこそ「行く河の・・・・」の弁証法的世界観が大事になってくる。
さて、なぜ共産党はブラック企業を叱り、労働法制度の改悪に立ちはだかり、応能負担原則の税制や大企業の内部留保の活用をブレずに提案できるのかと考えてみると、それは、企業献金、団体献金や政党助成金を一切拒否しているからに他ならないことに行きつく。
ここに手をつけない「身を切る」論は嘘であり、増税のための無花果の葉っぱに違いない。。
お金に綺麗でない者は、口先でいくらキレイゴトを言っても駄目だろう。
その典型は「維新」であり、思い付きのような「改革」を安売りするが、維新の会(当時)の本部収入の7割は政党助成金なのだから官営政党といえる腐敗ぶりである。
だから彼らが切るのは、国民の暮らし(身を切って増税する)であり、国民の民意(比例定数を切って死票だらけで非民主的な小選挙区の比重をあげる)である。そして、自公民もその点では五十歩百歩だと思っている。
あれから800年。私たちは長明に笑われないような選択をしなければならないから、明日は、どんなに木枯らしが吹こうが投票所までは行かなければ・・・・・・・。
自民党は選挙公約に、こっそりと憲法改正案を国会に提出し国民投票を実施し憲法改正を目指すと書き込んだ。しかしテレビ等ではほとんど伏せている。
内容は、戦力不保持規定の削除、軍隊の創設、国民の国防義務、基本的人権の永久不可侵条項の削除等々々、明治憲法の亡霊を蘇らせる所業。
こんなむちゃくちゃも、選挙が終わったら「国民の信を得た」と言うのだろう。
今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
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