先日、佐藤宗諄先生による「門脇先生と日本古代史」という講義を聴いた。
最初に佐藤先生が、「門脇先生の研究の出発点がここにある」と言って、門脇先生の「古代国家と天皇」という著書の「はしがき」を読まれた。
そこの言葉が私の心に突き刺さったので、早速その本を購入した。
1957年発行の定価160円の新書版のような本だが、ネットの中古本で約1500円で購入した。
折角なのでご紹介する。
第二次大戦の末期、郷土の兵営から陸軍二等兵として戦地へ送り出される日、ひじょうに悲しかったことが忘れられない。そのとき、わたくしは十九歳であった。・・・・・・・・
南中国の最前線で戦闘をやり、戦病者となり、部隊が上海へ撤退するとき本隊にはとりのこされて俘虜になって、俘虜のまま終戦を迎えてようやく日本に帰ってみると、「祖国」はすっかり変わっていた。もう誰にもだまされないぞ、と思って病床で、逆の意味、逆の意味にとりながら、戦時中の新聞を貪り読んだ。・・・・・・・・
わたくしは、わが「日本」が戦争に敗けた今でも、どこの国よりやっぱり一番好きだが、国民を戦争にかり立てようとする人や無関心な人は大嫌いだ。わたくしたちは「国家」についての知識や、自分の国をありのままにみる勇気が足りない点が少なくないと思う。国家は突如としてできたものでもなく、あるいは最初からあったものでもない。国家も天皇も歴史の産物なのである。だからわたしは、国家が成立してきた歴史をたどってみようとしたのである。・・・・・・・・・
ここには、戦後史学界を先頭にたって切り開いてこられた先生方に共通する信念が表されていると思う。
嘘で塗り固められたというか、学問とは異次元の狂信的なまでの皇国史観を信じ込まされ、多くの友人知人の戦死を見つづけ、アジアの人々を蹂躙してきた戦争の反省から、現代と未来を見据えようとした歴史学を打ちたてようとする気概が感じられる。
「記紀編纂1300年」と銘打って、戦前のように記紀の記述を無批判に歴史的事実であるかのように語る風潮が台頭したり、専門分野、例えば正倉院文書なら正倉院文書だけを微細に研究する風潮があり、一方に、高齢者が趣味的に、現代社会問題にフィードバックして思考することのない歴史の講座を楽しむ風潮を、これら戦後第一期生の史学者、とりわけ古代史学者は遠い場所からどんな思いで見ておられることだろう。
皇国史観の反省から、戦後の歴史家には「記紀は学問の対象ではない」というような傾向も一時はあったが、今は、考古学の成果と照らし合わせながら実証的に記紀も研究されつつある。
そういう古代史研究は、文献内の世界をほじくってよしとするのでなく、否応なく近現代史を歪めようとする現代的諸課題(神話の教え方、道徳教育、教育委員会、公募校長、教科書検定、教科書強制、戦争の展示方法、等々々)に結びついていくと私は思っている。
「古代国家と天皇」のあと、井上光貞著「わたくしの古代史学」定価1300円を、こちらは古書店で100円で買ってきた。
祖父が井上馨で、その世界では井上皇帝(光貞=皇帝)とあだ名された泰斗で、門脇先生より少し年長だが同時代の東(東大)側の代表バッターである。
しかし、その私などには想像もつかない貴族的な環境からでも、戦前の上司であった平泉澄氏の皇国史観や戦後の「逆コース」には徹底して批判をされていて、歴史の真実に迫ろうという真面目な学者の姿勢は感動的で一気に読み終えた。
二冊の本は、胸に満腹感を覚える読書だった。
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