2013年11月29日金曜日

三輪山登拝

三輪山から見る畝傍山、耳成山
  大神神社(おおみわじんじゃ)には本殿がなく拝殿だけだということは有名なことで、拝殿の先の「三ツ鳥居」の奥のお山(三輪山)がご神体である。
 この形は縄文の信仰にも通じる古式で、日本国中に大きな神社は数々あるが、そういう意味では伊勢神宮をしのぎ、日本で一番古い神社と言えよう。
 神の名は大物主神で、端折って言えば大国主神であり、天孫の天皇族に国を譲った先の大王である。

 歴史を学ぶ人々とともに、そのご身体のお山の頂上にある奥津磐座(おきついわくら)まで、「参拝証」の襷(たすき)を首にかけて登拝してきた。登山ではなく登拝である。
 だいぶ以前にも登拝したことはあるのだが何十年も前のことである。自信以前に心配が先立つ。
 標高は467.1mではあるが「直登」に近い。
 それに心房細動の発作の経験のある身には、息の上がる辛さと同時に恐怖感が頭をもたげる。
 その横を裸足で登られる信仰の女性が追い抜いて行かれるが、その女性の深刻な思いにまで心を巡らせる余裕はこちらにはない。
 下山まで3時間弱であったが、脱落しなかったことにホッとするとともに、体力の低下をしみじみと実感した登拝であった。
 いっしょに参加した職場の先輩は、登る途中早々に気分が悪くなってリタイアされた。紙一重だった。
 登拝口の摂社・狭井(さい)神社の万病に効くという薬井戸の聖水を飲んで生き返ったが膝の笑いは止まらない。

  歴史講座であるから、三輪の信仰、記紀神話、出土品、考古学的遺跡、神宝、建築様式、大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ・実は廃仏毀釈で廃止された大御輪寺だいごりんじ)等々豊富な話を学んだのもよかった。
 ちなみに、大物主の子孫の大田田根子が茅渟縣の陶邑(ちぬのあがたのすえむら)、現堺市の百済系の渡来集団に居た(書紀)というのも興味深い。また、大御輪寺の本尊は現在聖林寺にある、かの有名な国宝十一面観音像である。
 翡翠の子持勾玉のお守りを求めて、快い疲労感と知識の満腹感に気分よく帰ってきた。
 2日後にふくらはぎが悲鳴をあげたが、孫守に忙しくしているうちに忘れてしまった。
 孫守は薬の神様狭井神社以上に霊験あらたかであると言ったら失礼か。

6 件のコメント:

  1.  歴史にも疎い方ですが、「天の香具山」の付近では?百人一首の世界のように思います。もの凄い創作能力を今後とも持ち続けられて、体力面は年相応に気を使われて、お孫さんの子供を見るまではブロクを頑張ってください。いや、それ以上に貴重な話をパソコンを叩けなくなるまで頑張ってください。

    返信削除
  2.  天の香具山は写真の左側に切れています。
     この地は、日本国家誕生の地です。なので、百人一首よりも記紀の世界です。
     古事記・日本書紀によりますと、①オオモノヌシが丹塗りの矢になって川を流れ行き、厠でセヤダタラヒメのホトを突き、生まれた子供が神武天皇の皇后です。②崇神天皇のとき、イクタマヨリヒメが夜ごと訪れる男と結ばれ懐妊したが男の正体がわからない。そこで男の衣に糸を付けたところ三輪山の神オオモノヌシであることが判明した。その子供がオオタタネコです。③孝霊天皇の皇女ヤマトトトヒモモソヒメはオオモノヌシの妻になったが夫は昼にはおらずその姿を知らなかった。姫の願いを聞き入れ驚かないと約束して現した姿は小蛇だった。そして姫が約束を違えて驚いたので三輪山に帰ってしまった。落胆した姫ははずみに箸でホトを突いて亡くなった。その墓が最古の巨大前方後円墳の箸墓である。等々・・・

    返信削除
  3.  古事記・日本書紀は言葉でしか知りませんが、スケールの大きなポルノチックな物語ですね。長谷やんの凄い創作能力も入っているのでは?

    返信削除
  4.  こういう歴史を語ることによって、新参者の天皇は神の子孫だと、しかも、先住民の神とも合流したのだと言うのです。
     また、イザナキとイザナミの「まぐはい」で国土と神々が生まれたという冒頭から、それこそ延々とまぐはいとほとの話が続くのも、それが生、生産、豊穣、復活の源と考えたからでしょう。

    返信削除
  5. 私も数十年前ワイフと三輪山に上がりました。結構きつく頂上辺りは岩や石だけで木々にさえぎられて展望も無かった事、どこかの宗教団体の数十人が立ったまま瞑想していました。特に感動は有りませんでした。
    長谷やんの日本古代史の博学多識には敬服します。そして話は面白いです。
    日本古代史を歪めてしまった明治「維新」政府の廃仏毀釈、国家神道の垢が奥深く残って復活して来ました。行く着く先は戦争である事はつい68年前までの歴史が証明していますのに、恐ろしい事です。

    返信削除
  6.  神社も、少し距離を置いて眺めてみると、遠い先人たちの願いや恐れが伝わってきて面白いと思うことがあります。
     特に地方の神社は元々はその地の王(豪族)の信仰だったのでしょうが、それをアマテラスの家系図に無理やりツギハギしたのが、記紀であったり、各社の由緒書のような気がします。
     とすると、表面はアマテラス天皇族との由緒を語りながらも、端々のホコロビの奥から、征服された地元民の悔しさだとか誇りが見え隠れすることがあります。偉そうに語れるほど解ってはおりませんが。

    返信削除