2013年11月3日日曜日

謎のピラミッド 頭塔

  「東大寺南大門の真南約950mに方形七段の謎のピラミッドがある」と、よくテレビのクイズ番組などにとり上げられている。
  奈良時代最大の事件であった藤原広嗣の乱で殺された広嗣の怨霊が仇敵僧玄昉を空の上で八つ裂きにして都にばら撒いたが、その頭が落ちてきたところがここで、故に頭塔というと巷間信じられてきたが、神護景雲元年(767)に東大寺の僧実忠が土塔(石塔)を築いたとの記録もあり、伝説よりも面白くはないが、行基さんの造った堺の土塔(地元の人々は「どうと」と呼んでいる)と同じ仏塔である。

  妻は「あれが仏塔やというのは当たり前のことやろう」と即肯定するのだが、私はなかなか納得できなかった。
 仏塔といえば我が国では三重塔や五重塔が一般的であるし、767年の平城京の外京といえば、東大寺、大安寺、元興寺、興福寺等々の堂塔の文字どおり甍の波であったはずである。
 その中に新たに塔を築いたにしては失礼ながら些かちゃちではないかと不満であった。
 だから「ほんとうに仏塔なの?」という疑問がなくはないのだが「そしたら何や」と問われると答えはなく、きっと、留学僧や渡来してきたバラモン僧の知識から、仏教の原点に返れという、・・・ストゥーパや甎(せん)塔に返れという思想なのだろうと想像する。

  さて、奈良時代の石仏で現存しているものは珍しいらしいが、七段の奇数段に石仏が計44基配置されていたらしい。今は、現存している石仏の部分に屋根がつけられて風雨から守っている。
 奇数段に長い屋根があったのか、なかったのか、石仏の部分にだけ屋根があったのかについては諸説あり未確定らしい。
 ただ、復元された『石仏の部分にだけ屋根があるデザイン』は私にはどことなく違和感がある。
 ある一説に基づいて石仏のところだけ屋根を付けるというような復元が許されるのだろうか???
堺の土塔
  普通にこれを見たら、奈良の都にこんな形の土塔があったと人は思ってしまうだろう。
 堺の土塔のシンポジューム関係の本に土塔と頭塔の復元図があるが、そこでは頭塔の奇数段の上に端から端まで屋根が葺かれている。すっきりしている。
 現状の復元案は奈良文化財研究所と奈良県教育委員会の判断らしいが、そして、発掘された瓦の数が少ない等の理由があるのだろうが、それにしても復元ということは怖ろしいものだとしばし考え込んでしまう。
 発掘調査直後の写真がパンフレットに残っていたが、この形で残しながら複数の復元案を別途展示する方法はなかったのだろうか。私にはその方がしっくりくる。

 少し余談だが、今この国の政府は秘密保護法だ国家安全保障会議だと突っ走っている。再び大本営発表の報道で国民を善導したいらしい。
 「そんな簡単には国民は騙されへんやろ」と多くの国民は思っているだろうが、こんな復元を見ていると(この復元が全くの誤りだと言っているのではないが)、性格の穏やかな庶民を善導するのはわりと容易いような気がしてくる。

 なお、この夏に堺の土塔を見に行ったが、復元された土塔は基壇も瓦敷きで全体が約67000枚の瓦で葺かれた十三重塔で、立派なものである。
 指導者行基さんと、河内・和泉の大古墳群を造り守った土師氏集団の高度な技術に圧倒された(土塔町の隣が土師町である)。一見の価値がある。
 堺の土塔に行かれる方は、バスのアナウンスまでもが「どとう」ではなく「どうと」であるからお間違いの無いよう気を付けていただきたい。

 追録  堺市発行「史跡土塔講演会録」に掲載の復元想像図

2 件のコメント:

  1.  「復元は慎重に」と書いたが、いろんな考察の参考に、堺市発行の「史跡土塔講演会録」に掲載されている復元図を追録した。
     面白くありませんか?

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  2.  瓦屋根の件をFacebookの「史跡頭塔」に質問したところ、要旨「復元案は裏付ける資料が少ないため屋根の復元については断念した。」「この屋根は石仏を日光や風雨の損傷から守るためにつけた屋根である。つまり復元ではない。」とのご返事をいただいた。
     全文はご丁寧な返事だった。
     ということは、勝手に一人合点してはいけないということですね。いろいろ勉強になりました。
     そして、疑問は疑問として考えたり尋ねたりすることの大切さも再認識しました。
     Facebookの「史跡頭塔」さん、ありがとうございました。

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