2012年4月25日水曜日

鏡作部 失格

    森浩一氏が【倭人伝を読みなおす(ちくま新書)】の中で「東アジア全域を見渡しても、日本列島ほど銅鏡を愛用した土地はない。」と指摘されていて、それを否定する考古学者はいないように思う。
 では、「倭人が、何故これほどまでに銅鏡を愛用し大量に古墳に副葬したのか」となると百家争鳴の感があり、読めば読むほど、聞けば聞くほど夫々に一理がある。これは後日のブログへの「お楽しみ」の宿題である。

 そういう倭人の血をひく我が家にもご多分にもれず神棚に小さな銅鏡がある。
 ただし、ものの見事に曇っているというか錆びていて、子どもたちも「これが鏡である」と認識していなかった。
 もう一つの文鎮にしている銅鏡も同じ状況である。
 だから、ふと、もう一度磨きなおして、子や孫たちに「これが銅鏡だよ」と見せてやりたくなったのが半月ほど前のこと。
 そこで・・・、先ず、仕上げ砥石とクレンザーで錆落しをしてみたが、大きな錆びは落ちたものの反対に鏡面が傷だらけになってしまった。
 その上に、「一度やってみてやれ」とハイターを使ったら、再び強力に錆びてしまって元の木阿弥。

 それ故・・・・、だいたいが銅鏡の復元に近代兵器に頼ろうとする根性がよくないと反省し、田原本町に鎮座まします「鏡作神社」に参って来た。
 この神社の祭神の一人は石凝姥命(いしこりどめのみこと)で、社伝によると岩戸隠れでお馴染の神器・八咫鏡の製作者。宮中にある形代(かたしろ)(レプリカとは言わない)の鏡も此処で製作されたという。この地周辺の鏡作部(連)の祖神。延喜式内大社。

 作業再開後、庭の木賊(とくさ)を採ってきて磨いてみた。これはサンドペーパー以上の効果があった。すばらしい。
 ということは・・・、錆は落ちたが、やっぱり相当傷がついてしまい、金属としては輝いてはいるが、鏡というものとは程遠い。
 次に、カタバミを採ってきたが、仕上げによいことは解ったが木賊の傷を消すのは何ヶ月(何年?)かかるやらといったところ・・・・。こんな試行錯誤に10日間ほど費やした。
 というように、古代人の真似をするだけで正直なところ「ネ」を上げた。

我が家の銅鏡
 で、結局軟弱な倭人の子孫は、石凝姥命に「面目ない」と謝りつつ、再びホームセンターに足を向けた。
 購入したのは『#4000(3ミクロン)超精密研磨フィルム』というびっくりするほど細かいサンドペーパーらしからぬサンドペーパー。これで大きな傷は目立たなくなった。
 さらに、石凝姥命に「ごめん」と謝りつつ、「ピカール」(仏具などを磨く近代兵器・・・といっても私が小さい頃から存在していて、仏具磨きをよく手伝った折の懐かしい練薬?)で1週間ほど磨いたのが写真の銅鏡。
 いろいろ寄り道をして3週間ほど経っている。まだまだ未完成だが、とりあえず中間報告をできる程度には輝いた。
 映っているのは文鎮にしている鏡の裏面(模様のある面)。こちらはまだまだ木賊の傷のまま。

 このように、博物館で見る古代の出土品の技量には驚かされることが始終ある。
 薄く均一に鋳出された銅鐸なども近代工場でも製作するのが至難と聞く。
 当初は、「今回の研磨の経験が上手くいけば、鋳型作り、鋳造から全工程をやってみたい」と思っていたが、今はやや挫折感に覆われている。
 椋の葉やカタバミの葉で気長に磨き続ける自信もなく、戦意を喪失している。
 鏡作部のみなさん、ごめんなさい。
 ピカールの会社のみなさん、ありがとう。

2 件のコメント:

  1. まめやね!頭が下がります。写真の技術はスノウさんがおっしゃるとおり感心します。続編を楽しみにしています。

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  2. !uyumaccuさん ブログの補足をしておきますが、3週間ほどこんなことばかりをしているのではありません。1~2日に1時間ほど作業を積み重ねているだけです。
     しかし、根がイラチですから返って無駄な作業を増やしています。
     ブログの前文に書きましたが、古墳時代の支配者層がどんな気持ちで銅鏡を大切にし副葬したのかを、磨きながらズーっと考えているところです。

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