だからと言ってシャンソンの「リラの花の咲く頃」(宝塚でお馴染のスミレの花の咲く頃)を唄ってみたわけではないし、シャンソンについて書くわけでもない。
実は、この花を見ると私は毎年「ホイットマンの詩にライラックの花があったなあ」と思い出していた。精確には「最後のライラックが戸口の庭に花開いたとき」という題なのだが・・、と言って、情けないことに私はこの詩を一行たりとも思い出すことができない。なんということだ。
そこで、一念発起して書棚のあちこちを探してみたら、若い私が買い求めたホイットマン詩集がやはり出てきたが、う~む 読み返してみて共鳴するナイーヴさは何時の間にか何処かに置き忘れてきたようだ。
しかし、それでもいいのだ。
たしかな事実は、二十歳そこそこの私がこのホイットマン詩集を買ってみたいと思ったこと、そして買ったという事実だ。そしてそして、幾ばくかの共鳴するところがあって書棚になおしたという事実である。
「もう読み終わった本、読み返すこともなさそうな本は処分したら」と妻は常々言うのだが、そんなとき私は「子どもたちがこの書棚の前を通る時、読まなくても子どもは賢くなるのだ」という超論理的な言い訳をしてきたのだった。
だから、内田樹氏の『街場のメディア論』に、『書棚は僕たちの「あらまほしき知的・美的生活」を図象的に表象するものたりうる』という叙述には、思わずありがとうと呟いていた。
それにしても、この詩集には奥付の紙が貼られていた。なんて懐かしい体裁だろう。
詩集は、読まなくても、手にとっただけで心を豊かにしてくれることを実感する。
きっと、「書棚の中に詩集があるはずだ」と思うだけで、満足していたのかもしれない。
そんなことを言うと、「そんなんは唯のええかっこしいや」と又妻に叱られることだろう。
事実、詩集はあったが詩心は全く私の中に育たなかった。あ~あ、「リラの花言葉は初恋の情緒」と聞いても今では心は騒がない。あたり前か。
私の持っている釣り関係や「食」関係の昭和20~30年代の古本には奥付の検印が別紙で貼り付けられ、さらにその上にハトロン紙を貼り付けた丁寧な本(高価、廉価問わず)もあります。この検印が「印税」の元になったそうです。(wiki)より。
返信削除!ブログなどという世界に手を汚しながら、古い書籍の奥付に感動しているというのもおかしなものですね。
返信削除書籍の愛しかたでは、蔵書印もありますね。このホイットマン詩集にも私の蔵書印が押してあって懐かしく感じました。その蔵書印、相当以前に行方不明で寂しく思っていましたが、ひげ親父さんから戴いた篆刻の蔵書印を近頃は愛用しています。ひげ親父さん ありがとう。
なお、「EXLIBRIS=蔵書票」というのもとてつもなく魅力的ですが、私は未だ手をつけておりません。昨年5月24日のブログに八戸の大先輩の素晴らしいEXLIBRISを掲載しています。