アカシアの花というと、私たちの世代は(と勝手に世代を代表するが)、「この道」の歌詞よりも西田佐知子の鼻に掛かった「アカシアの雨がやむとき」が思い浮かぶ。
この歌は「60年安保の挫折感の象徴」のように語られるが、その常套句の適否はさておき、確かにあまり前向きの歌ではない。だから善くないと言っているのではない。 ところが、同じアカシア類の中でも「銀葉(ぎんよう)アカシア」の別名のミモザと聞くと、シャンソンのイメージが浮かんでくる。ただただ此方の勝手なイメージの話である。花には何の責任もない。
さらに極めて個人的には、老人施設に入居していた実母が庭の立派なメープルの木をミモザという名と何回も何回も勘違いしていたことが思い出される。
「ミモザではありません メープルです」と筆談をすると「そうやった」と言うのだが、次の機会にはまた「ミモザ」と言う。ということで、私にはミモザはあの綺麗な花にも拘らず、実母の老化、認知症と関連付いてちょっと重く思い出される。これも花には何の責任もない。
本によると南フランスでは日本のお花見のように「ミモザ祭り」が行なわれ、人々は春の訪れを実感するらしいが、フランス人であるらしい我が妻も同じようにミモザで春を強く実感するらしい。
「あの黄色い花の塊を見ると、ああ花粉症の季節だ」と条件反射的に鼻が痒くなると言う。
孫も義母もやってきた。孫は歩く姿を披露してくれた。
義母は曾孫の一挙手一投足が可愛くて泣き出した。
何もなくても我が家のミモザ祭りはありがたい。
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