2011年2月19日土曜日

神雄寺で祈っていたのは誰

 今日、平城京のすぐ北に当たる京都府木津川市天神山の馬場南遺跡の神雄寺(かみおでら)の小塔跡(奈良時代)発見の現地説明会があった。
 京都府民というよりも「大阪府民のベッドタウン」である木津ニュータウンの北隣である。
 すぐ近所なので夫婦で行って来た。
 これまでに約10000枚の灯明皿(大規模な法要)や万葉歌木簡(阿支波支乃之多波毛美智=秋萩の下葉もみぢ)等が発掘されていた遺跡であるが、墨書から判明した神雄寺(かみおでら)は歴史書に登場しない(歴史上抹殺された?)お寺で、「歴史の野次馬」としてはこんなに楽しいことはない。
 平城京から山背(やましろ)に入ると一番最初に目に入る小塔・・という立地条件にも拘らず歴史書に登場しないのは何故か、新聞各紙が解説するように「聖武天皇・光明皇后が大規模な燃灯供養を行った勅願寺か?」というなら、なおさらのこと、ミステリアスな遺跡である。

 なお、素朴な疑問だが、平城京に遷都した為政者は、都のすぐ北側を大和の国ではなく山城の国にしたままだったのはどうして? 今度の遺跡のように文化的にも経済的にも(平城京の瓦や木材をはじめ)共通する地域と思われるのに・・。 勉強をしないまま「おかしいなあ」「なんでやろう」と家庭内で会話している。

 それにしても、国や自治体の予算が単年度会計になっているため、つまり、予算がついてから発掘が始まり年度末には結果報告が必要なため、この時期は現地説明会ラッシュらしく、「このあと枚方へ回ります。」等々のマニアックな会話が飛び交っていて感心させられる。
 蛇足ながら、単年度会計って無理がありますよね。・・現地説明会が冬に集中して寒いからと文句を言っているのではありません。


 

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