2011年2月9日水曜日

円筒埴輪を好んだ人はどんな人

 昨年に、復元されたナガレ山古墳を見たときに、妻が「円筒埴輪から形象埴輪に移っていった意味が解らん」と言い「それもそうやな」と思っていたが、先日聞いた講演の鞍岡山3号墳でも円筒埴輪列があり、頭の中でその疑問が再燃したので、橿原考古学研究所付属博物館の「埴輪のはじまり」を見に行ってきた。
 展示の内容は、①弥生の墳丘墓や出現期の古墳には壷とその器台(円筒形)が飾られたものがあり葬送の儀礼の品らしいこと。②古墳時代の前期初頭(3世紀中葉)には先の器台が発展したような円筒埴輪が現れたこと。③古墳時代前期前葉(4世紀前葉)に家型等の形象埴輪が現れたこと。④古墳時代中期(5世紀中葉)に人物埴輪や動物埴輪が表れ多様な飾り立てがされたこと。⑤前方後円墳の衰退とともに埴輪も衰退したこと。・・というものだった。
 ところで、そもそもの疑問は、形象埴輪から抽象的な円筒埴輪に発展?したというのなら、何となく人類の精神史、美術史として納得できそうなのに、高度に抽象的な円筒埴輪の後に形象埴輪が現れているという文化の流れが腑に落ちないというものだったし、結局、展示の限りではそれは解らなかった。
 勉強もせずに解ろうとするのが甘いに決まっているが、想定されることは、円筒埴輪の抽象性に納得していた初期の王権が、現実的でゴテゴテ飾るのが好きな〇〇府民のような王権と交替、移行したのではないかというのが私の感想で、ここでも万世一系の神話は肯定できないと思い至った。
 偉そうに王権の交替を唱えたが、これはすでに考古学会では常識とされていることを述べただけで何も目新しい説ではない。

 蛇足ながら、日本書紀の「野見の宿禰が日葉酢媛命陵への殉死の代わりに埴輪を作ったのが始まり。」との旨の記述は、以上の諸事実からしても考古学的には全く否定されている。
 時代も合わないし、そうであるなら、それこそ「最初は形象だった。」となり、私たち夫婦は何も悩むこともなかった。
 

3 件のコメント:

  1. 私は埴輪は殉死とその枠内の身代わりだと今まで思っていました。
    長谷やんのブログで認識が変わりました。そして古代の埴輪の変化を始めて知りました。ドラム缶形埴輪に興味がわきました。これから色々なところで古代人の意識の中の円筒形のこだわりと意味を探りたいと思います。

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  2.  よく縄文人は動物に近いもの、弥生人や古墳時代人も未開人のようなものという漫画や本がありますが、出土された木製品、鉄製品等々を見ると、昭和30年代のものだと言われても判らないほどのものがいっぱいあります。残念ながら中華のような文字記録が残っていないので解りませんが、精神生活だって現代人と共通するようなところも多かったのではないかと想像します。そんな人々が円筒埴輪の向こうに何を見ていたのかなという興味が尽きません。
     スノウさん、山小屋のブログを開いてください。

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  3.  スノウ仙人のご棲息先は、備前?備中?美作? 言い忘れましたが、原初の埴輪である特殊壷形土器&特殊器台形土器文化の発生地は吉備ですから、もしかして仙人は、後々の日本列島の支配的・標準的文化となる埴輪文化誕生の地の上にお棲まいでは・・・・
     吉備がヤマトを征服したのか、連合したのか、そのとき出雲は・・・・この話は今後ゆっくりと・・・・

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