銘文:中平🔲年五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 下避不祥(中平🔲年、五月丙午(へいご・ひのえうま)の日に、 支刀を造作す。 百たび練え清剛なり、上は星宿に応じ、下は不祥を避く)。
文化庁の「文化遺産オンライン」には、『日本最古の出土銘文(めいぶん)刀剣としてよく知られ、刀身部は中国製で環頭部は日本製です。一部を欠失しますが、刀身背部に金(きん)象嵌(ぞうがん)で24文字が刻まれていたとみられます。「中(ちゅう)平(へい)」(184~189)は後漢・霊帝時代の年号で、後漢書東夷伝に倭国大乱があったとされる時期です』とある。
ちなみに、魏志倭人伝の卑弥呼の大夫が朝献したのが景初3年(239年)であるから、百何十年、何人かの手を経て4世紀の初期のヤマトの大王に近い東大寺山の豪族(膳氏?)の墓に副葬されたことになる。ほんとうだろうか。
謎の一つは、「百たび練え」の文字(漢字)である。小笠原好彦先生の指摘するところ、これが中国製ならば「百錬」と金偏であろうと。
そこで、いろんな辞書をあたってみたところ、練が狭義の糸偏に限らないとしても、中国製なら迷うことなく錬とされていたはずだという疑問に賛同することにする。白川静先生なら問答無用で同様におっしゃりそうだ。
今後の発見に待たなければならないが、例の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」のように、日本国内(例えば葛城)の渡来人系の金工たちの手習いの典型的フレーズだったかもしれないとの問題提起は少し楽しい。となると中平=2世紀の意味はなくなる。
補足的に言えば、この太刀は粘土槨(棺)の中ではなく、棺外に副葬されていた。
疑問を自分の頭で考えず、いわゆる定説をなぞっているだけなら勉強ではない。
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