2024年9月26日木曜日

浜寺の金網

    南海本線浜寺公園駅の駅舎は辰野金吾の設計になるもので国の登録有形文化財に登録されていて有名だが、その南隣の駅が羽衣駅である。
 駅名及び地名がなぜ羽衣かというと近くの(後の)浜寺公園に天女伝説の『羽衣の松』があったからだが今はもうない。
 なぜなら、1945年(昭和20年)敗戦によって浜寺公園はアメリカ進駐軍の宿舎用地のために全面接収され、羽衣の松をはじめ数々の名松を含む約1,700本もの松が伐採され、白砂は土が盛られ芝生地に変えられ、米軍宿舎など様々な建造物が建設されたからである。
 日本は1952年(昭和27年)独立を回復したが、進駐軍は駐留軍と名を変えて1958年(昭和33年)までキャンプは続いた。
 そのため浜寺公園の先の海水浴場は『日本人off-limits(立入禁止)』であったが、キャンプ撤収1~2年前には、長谷やん少年は、金網で囲われた細い道を歩いて、左右の豊かな米軍住宅などを見ながら、「通らせていただいて」海水浴に出かけていた。

    そんな思い出話を書く気になったのは、長谷やん少年が見た「差別的な」駐留軍キャンプが、大阪では1958年(昭和33年)に解消したが、沖縄では79年後の現在も全く変わっていないというか、もっと屈辱的な形で残っているからである。

 写真は杉山和彦氏のFBにあったものである。長谷やん少年が「通らせていただいた」浜寺と変わらない。

 事実上次期総理大臣になる自民党総裁選挙が行われているが、候補者の誰一人として不当な対米従属の解消を誓うものはいない。
 日米安保体制反対!を「流行おくれ」のように言う人がいるが、人間、軽薄な者より頑固者の方が信用できる。

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