2024年9月16日月曜日

陸奥守百済王敬福

    14日付け朝日新聞be版に「はじまりを歩く・・国産の金・・陸奥から都へ 大仏を輝かす」という記事があった。
 
 この話は先日、古代史の講座で習ったばかりのことだったので、少しだけコメントすることにする。

 続日本紀天平21年(749)2月22日条に「陸奥国、始めて黄金を貢る」とあり、
 天平勝宝元年(749)≪天平21年=天平感宝元年=天平勝宝元年≫4月1日条に「此の大倭国は天地開闢けてより以来に、黄金は人国より献ることはあれども、此の地には無き物と念へるに、聞こし看す食国の中の東の方陸奥国守従五位上百済王(こにきし)敬福(きやうふく)い、部内の少田郡に黄金在りと奏して献れり。此を聞きたまへ、驚き悦び貴び念はくは、廬舎那仏の慈び賜ひ福はへ賜ふ物にありと念へ、・・・」とある。聖武天皇は大喜びだった。

 さて陸奥守百済王敬福だが、遡る時代朝鮮半島の三大国は唐も絡んで対立していたが、百済の義慈王は倭と同盟し、二人の息子豊璋と善光を631年に倭に派遣(人質)したが、660年唐新羅連合軍によって百済は滅ぼされた。
 倭は662年には豊璋を帰国させ663年には白村江に出陣したが大敗した。
 倭に残った善光の子が昌成、その子が郎虜、そしてその子が敬福である。
 敬福は能吏であり、続日本紀天平神護2年(765年)6月28日「刑部卿従三位百済王敬福薨しぬ」とある。
 「敬福は・・放縦して拘らず、頗る酒食を好む。・・来りて清貧なることを告せば、毎に他の物に仮りて望外に与ふ。是に由りて、頻に外任を歴れども、家に餘財無し」とあるから、好漢でもあった。

 百済王敬福(くだらのこにきしきやうふく)の興味は尽きない。
 なお、日本列島でなぜ金が産出したのかは、中公新書・伊藤孝著『日本列島はすごい—水・森林・黄金を生んだ大地』がある。

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