古今和歌集の仮名序で紀貫之が「手ならふ人のはじめにもしける」と述べ、紫式部は源氏物語の中で「まだ難波津をだにはかばかしう続けはべらざめれば」と科白を書いている。
事実、7世紀中期の遺跡から、練習したであろうこの歌の木簡が数々出土している。
作者は百済からの渡来人王仁博士で記紀では仁徳天皇の即位に際してこの歌を献上したと記されている。
その仁徳天皇の難波高津(たかつ)の宮の所在地については確定していないが、法円坂に復元された大型倉庫(群)が古墳時代とされているから、法円坂(結局今の難波宮跡遺跡)周辺が有力視されている。
一方、谷町9丁目西方の高津神社の伝承も侮りがたいが、より上町台地上の近鉄ホームあたりにあった東高津神社(元高津)も立地条件からすると捨てがたい。古地図には仁徳天皇大宮跡平野社ともある。その東高津神社は今は少し北側の東高津町に鎮座されている。仁徳天皇と磐之姫命を祀っている。
戦前は我が家つまり父や母は東高津に住んでいたので、東高津神社の氏子であり、鳥居には父の名前も彫られている。
そういうこともあり先日、大阪市内へ出かけた折に参拝に寄ったところ、境内に王仁神社が勧請されているのを知った。というか、これまでは末社にはほとんど関心がなかっただけ。
いまさら歌の道を究めることもできないが、これを機に、少しは歌ごころをかじってみようかと思った。
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