2023年2月1日水曜日

富雄のひと

   古墳時代、つまりは大王の時代はどこから始まるかという論争がある。反語的に言うと弥生時代の終わりはいつかということでもある。

 奈良の三輪山の西北麓の纏向遺跡は農耕の痕跡がなく、弥生の大集落とは全く違う特徴を持っている。そしてその周辺に、これまでの「墓」とは格段の規模を持つ「古墳」が出現している。
 その中でも初期と思われる「ホケノ山古墳」が「最初の古墳」というか、「最後の弥生墳丘墓」というかで論争がある。

 そして有名な箸中山古墳があり、この辺りから古墳時代は始まっているとの考えに学界では異論がない。
 白石太一郎先生は、箸墓(箸中山)→西殿塚→外山茶臼山→メスリ山→行燈山・渋谷向山と出現した大規模前方後円墳が初期の大王の墓だろうと指摘し、それはおそらく3世紀中葉過ぎから4世紀中葉までの100年間と考えられている。
 ちなみに魏志倭人伝は卑弥呼の死を247年頃とし、晋の起居注は台与?の朝貢を266年としている。

 以上は前書きでこれからが本題に入る。
 渋谷向山古墳のあと三輪山西北麓の「やまと」の地では巨大な古墳は造られず、替わって奈良市北部の佐紀丘陵に佐紀陵山、佐紀石塚、五社神古墳が、その少し南に宝来山古墳が築造された。
 この古墳築造地の移動は更に有名な古市、百舌鳥へとつながるが、その理由は何であったかということについても大いに論争がある。例えば後に移った古市、百舌鳥に関わる「河内王朝説」などである。
 端折って、諸説あるが、政権を担ぐ有力豪族間の勢力の移動ではあるまいか。

 さて、本日の主題は富雄丸山古墳である。
 現在の奈良県でいえば、河川が東から西に流れている「やまと」の地から、河川が北から南に流れている富雄川などの「「曾布(そふ)」の地に巨大古墳の築造地が移ったのだが、曾布は古代「和珥(わに)」という大豪族の地だった。同族には春日氏もいた。よって和珥氏を横において佐紀盾列古墳群を語ることはできない。
 今般のニュースの解説などの中で、富雄の地は佐紀古墳群の地から離れているという議論があるが、富雄の地は曾布の中の地であるし、曾布は元々縣(あがた)のあった所である。

 以前にも書いたが、面白いことに、「添御縣坐神社(そえのみあがたにいますじんじゃ)」という神社が二つあり、一つは佐紀古墳群のすぐ近くの奈良市歌姫町字御縣山にあるのだが、もう一つは奈良市三碓町、そこは富雄の地にあるのだった。
 
 となると、後の天皇家となる王権と姻戚関係を深め「天皇」陵築造の中心を担った和珥氏の首長の墓を検討してみるのが先ずは順当ではないだろうか。
 いずれにしても、魏志倭人伝と倭の五王の間の歴史書の空白を埋める、大注目の古墳である。未盗掘らしいから、歴史書が変わるかもしれない。

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