2021年6月11日金曜日

「利他」とは何か

   この間から、このブログでも「忘己利他」というキーワードが度々登場した。人間の生き方として大切な箴言だと納得して使用してきた。しかしそこへ『「利他」とは何か』と根源的な問題意識を突き付けられると、煩悩具足の凡夫はあたふたするだけだった。集英社新書『「利他」とは何か』はそういう本だった。伊藤亜紗執筆の「はじめに」から引用すると、

 第1章では、伊藤亜紗さんが、利他をめぐる近年の主要な動向を整理しつつ、共感や数値化など、そこにひそむ問題を指摘し、ケアの具体的な場面に焦点を合わせながら、制御できないものに開かれた「余白」を持つことに利他の可能性を見出し、よき利他においては、他者の可能性が引き出され、私(伊藤)もまた変化してしている。

 第2章では、中島岳志さんが、「贈与」や「他力」といった利他の根幹に関わる問題について、志賀直哉の作品や親鸞の言葉などを手がかりに論じ、贈与には、相手に負債の感覚を植えつけ、支配することにつながる残酷な面があり、むしろ、思わずやってしまうオートマティカルな行為にこそ、利他が宿るのかもしれない。

 第3章では、若松英輔さんが、柳宗悦や濱田庄司のテキストを通して「民藝」の美に迫り、用いられるなかで生まれる手仕事の美からみえてくるのは、自他のあわいに起る「出来事」や「場」としての利他のあり方で、利他は「利他」と名指すことによって記号化し、死んでしまうと指摘。

 第4章では、國分功一郎さんが、中動態の枠組みから、近代的な「責任」概念をアップデートし、「おまえが自分の意志でやったんだろう」と他者から押しつけられるような責任ではなく、困っている人を前に思わず「応答」してしまうような責任のあり方。そのような心のかたちに利他の可能性を求め、

 第5章では、磯崎憲一郎さんが、小説の実作者の立場から、「つくる」行為の歴史性について語り、つくるという能動的な行為のように思えるが、書くことは予期せぬ流れに乗って「逸れて」いくことでもあり、そうやって生まれた作品は、結果として、連綿と続く小説の歴史に奉仕するための仕事になっている・・・

 紙面の制約もあるが、私の能力がこの本の要約を許さない。

 非常に納得した個所もあり、理解が困難な個所もあった。この種の本はひととおり読んだあと書架に留め置き、何かの思考の過程で「そういえば・・・」と引っ張り出して読むのがよい本のような気がする。

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