阪神大震災もそうだが、去る者は日々に疎くなっていく。
そういうテーマの場合、「語り継ぐことが大切だ」という言葉をしばしば聴くことがあるが、だからと言って文字に残す努力はあまり見えてこない。
といっているうちに、時間の問題で記憶が霞んでいくことだろう。
私は戦後の堺の街で育ったが、成人前後から故郷を離れたので思い出も徐々に遠ざかっている。
戦争遺跡の話である。
何回かブログに書いたことがあるが、大空襲では堺の環濠(土居川)が死体で埋まったという。
空襲それ自身は知らないが、戦後すぐに宿院町西の土居川河川敷(川尻)あたりに慰霊堂が建てられて供養が行われていたことは覚えている。
私は母に連れられて御詠歌の席に連なったことが度々あった。
しかし、堺の歴史、郷土史の類にはそのことが全く出てこない。
そして私も、その慰霊堂がどこにあったかの記憶もあいまいになりつつある。
青年期のことでは、友人が結核を患って金岡の国立療養所大阪厚生園に入院し、私は頻繁に見舞いに行き、人生や社会や思春期の話を繰り返した。
そのときの記憶では、旧金岡連隊、衛戍院、米軍キャンプ跡地であった大阪厚生園の正門を入った正面には大砲があった。
しかし、昭和30年代後半にそんなことがほんとうにあっただろうか。
砲台跡を見て大砲を頭の中にだけ記憶したのだろうか。
いくらかの史料を探したが大砲がいつまであったかはわからない。
記憶などというものは当てにならない。記録に残す大切さは昨今の国会論議でも明らかだ(あちらは隠蔽と虚偽ではあるが)。
先日奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡に行ったことは書いた。
そこには高角砲(高射砲?)の台座が残っていた。
都市の戦争遺跡は経済成長でなくなり、田舎の戦争遺跡は過疎化でなくなっている。
そういう意味では貴重な遺跡である。
古代史とともに近代史も学べる貴重な場所である。
柳本飛行場のせいで奈良の文化財がどのように戦争被害に遭ったのかも調べてみたい。
柳本飛行場もネットに記載されている。
防空壕が小山のように造られており、まるで数ある円墳みたいであるのはそのように意図したものだったのかどうか興味がある。
自治体が「慰安所があり朝鮮人の女性が連行された」と案内板に書いたところ一部から抗議があって引っ込めたという記事もある。これは現代史そのものだ。
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