加藤義明さんは美術史上欠かせない人物で、作品を後世に伝えたいと、作品群の寄贈先美術館を探しているということだった。
加藤義明さんの名前は知らなくても、一定年齢以上の大阪の人なら、1973年にヒットしたNHKドラマ、茂木草介作「けったいな人々」のタイトル画の美しさは覚えておられるかもしれないし、1983年から地下鉄淀屋橋駅の天井にまでかかって壁一面の「大阪のまつり」幅12m×高さ4m×4枚のきり絵は何年間も大阪のシンボルのようなものだった。
きり絵の最大の特徴は「吊り」とか「つなぎ」で絵をバラバラにしないことで、あくまでも「1枚の紙であること」だが、それが素人が作るとその「つなぎの線」がいやに鼻につくものだが、それを美術の域に高めた一人が加藤義明さんだと私は思っている。
ほんとうに適切な美術館が手をあげてほしいものだ。
さて、8月26日の「折口信夫と盆踊り」の記事で少しだけ触れたが、生駒谷・平群(へぐり)の村の古い盆踊りの中心には行燈付きの竹が立てられ、その行燈は「切紙」(きり絵)で飾られていた。
その詳細を復元するには義母の記憶は遠すぎた。
平群の古い盆踊りはほんの一例で、各地の祭り、神事、仏事に伝承されてきた「きり絵」は数多く、多くはただの装飾ではなく、重要な結界であったり依代(よりしろ)だろう。
26日の記事のメーンテーマの「音頭取りがさす番傘」のように、今のうちに誰かが蒐集整理しておかないと、雲散霧消してしまわないかと心配だ。
正倉院御物の「人勝残欠(じんしょうざんけつ)」のように残欠になってからでは遅い。
私の嗜好から伝統的な「きり絵」に話が跳んだが、加藤義明さんのそれは現代美術の作品である。
8月に、氏が長く居住されていた堺の地で「平和のための戦争展」があり、その一角にいくつかの作品が展示されていた。
そういう展示の機会が何処かであればどうか鑑賞していただきたい。
氏の夫人は私たちの労働組合の近畿地協の書記さんでもあった。
ふるさとのきり絵が揺れる秋祭り
わが退職者会の小旗は、お弟子さんの承諾も得て、加藤義明さんの「難波橋」のライオンをシンボルデザインにしています。
返信削除加藤さんの記事、アップ有難うございます。地下鉄淀屋橋の壁画は本当に我々の誇りで東京から来た知人に自分の事のように自慢したものでした。
返信削除その加藤さんが愛した「百舌鳥八幡月見祭」今年は10月7日、8日(旧暦の8月15日、十五夜)にあります。土師の黒房見たいな~。
「布団太鼓」の作品は「太鼓派」の心を揺さぶりますね。
返信削除よい美術館が見つかってほしいと願っています。
加藤義明さんは大阪の民主運動にも多大な貢献をされてきた方でした。
返信削除今まさに堺市長選挙の事実上の本番。
ご健在であったならきっと竹山市長再選のために力を尽くしていただいていたことでしょう。
私も大阪で働いていた時、加藤義明さんの夫人に大変お世話になり可愛がってもらった一人です。高知に帰ってくるとき(今から三十数年前)、加藤義明さんの切り絵の作品をいただきました。浄瑠璃の見事な切り絵で、今も大切に飾らさせてもらっています。書記さんが入院されていた時一度お見舞いに行かさせていただきましたが、それが最後でした。
返信削除人のブログに自分のことばかりコメントして申し訳ありませんが、「平和のための戦争展」が目につきましたので、少し紹介します。嫁さんのお父さんは、故人ですが絵を描くことが趣味というより画家でした。仕事をしている時も仕事を辞めた後もずっと油絵を描いていました。戦争での悲惨な状況をリアルに描く反戦画家でした。大阪のテレビ局が義父の特集を行い、そのビデオを高知に送ってもらい、高知だけではなく全国的に有名な反戦活動家に見てもらいました。その反戦活動家の先生は、「高知でも、『平和のための戦争展』をやろう!是非協力して欲しい。」との依頼がありました。とんとん拍子に事は進んで、高知県立文化会館で「平和のための戦争展」は開催されました。友人も「平和のための戦争展」に連れて行きましたが、「こんな悲惨な迫力のある絵画見たことない。」「戦争はしたらいかん。」等の感想でした。戦争展だけではなく、枚方市や大阪の通天閣でも個展を開いたと聞いています。義父の作品は市に寄贈したと義母が言っていました。
バラやん、ちょっと感動的なコメントをありがとうございます。よかったら、少しまとめた短文にしていただければ、何かの印刷物にしたいと思います。どうかご検討ください。絵画の写真も1枚ほどあれば嬉しいです。
返信削除高知の平和のための戦争展は、そのように始まったのですね。素晴らしい。
もっと詳しい話が聞きたいですね!是非続報をお願いします。
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