退職者会の世話人会の後、安物の居酒屋で恒例の交歓会となったとき、一人が「NHKの100分de名著、全体主義の起源(1~4回)を観たか」と話し始めた。
私は4回目の最後の方を力を入れずに見ていただけで、偉そうに議論に噛める立場ではなかったが、「全体主義の起源」や「アイヒマン裁判」の概要を含んだ矢野久美子著『ハンナ・アーレント(中公新書)』や藤井聡著『〈凡庸〉という悪魔』を読んでいたので、その知識の限りで議論に参加した。
その論点の一つは、『自分自身がアイヒマンの立場であったならどうしたか』ということだった。
ちなみにアイヒマンはドイツの小役人で、実務を淡々とこなしながらその実務能力を買われ、最終的にはゲシュタボのユダヤ人課課長として、絶滅収容所への輸送事務の最高責任者となった。
本人は、自分は輸送事務を処理しただけだと述べている。
逃亡生活後1960年にイスラエルの諜報機関に逮捕され、イェルサレムで裁判にかけられ、死刑制度のないイスラエルで例外的に死刑に処された男である。
この裁判を傍聴して新聞記事にしたのがハンナ・アーレントで、「上司の指示と法に基づいて仕事をしただけ」と繰り返す凡庸な小役人にアーレントは戸惑った。
居酒屋の議論の中では、「アイヒマンはもちろん正しくない仕事をしたのだから許されない」という正論もあったが、「自分自身に置き換えて自信がない」という意見も少なくなかった。
これは、直接的には公務員労働者の問題ではあるが、民間企業であっても、例えば所属している企業が公害を排出していることを知ったときどう対応するか、公表されているデータに偽装があるのを知ったときどう立居振舞うか、もっと低いレベルのことを言えば情報公開を求められたとき企業内の素直な議論をそのまま公開できるか等々、告発者を力強く護る分厚い体制がない場合に一組織人として突きつけられる究極の選択問題だ。
現代の問題としては、アイヒマンは佐川元理財局長とダブって見える。
ハンナ・アーレントはこれについて、「(公務員には)政治的な責任を負えなくなる極端な状況が生じうるが、その場合は、自分が無能力であることは公的な事柄に関与しないことの言い訳としては妥当なものだと思う」と述べ、「無能力を選ぶことができたのは、自己との対話である思考の能力を保持しえた人たちだけだった」と『関与しない』選択をするよう結んでいる。
だが、これが現代社会の労働者にストンと理解されるだろうか。悩ましい。
居酒屋の議論はここまで。
お互い紆余曲折を生き抜いてきて、こういう人間としてとか、人生とはという根源に関わる議論ができるのは楽しいことだった。
現実の社会問題は、紋切型の正解だけでは進まないことも多い。
多くの労働者が多かれ少なかれ矛盾の中で悩んでいると思う。
多数派を目指すなら、その気持ちに共感できるおおらかさが私たちに求められているような気がする。ではどうするか。
この記事を書きながら、その昔、高校の授業中に先生がこう言ったのを思い出している。
『私は社会の先生をしていて、「悪法もまた法である」と言って死んでいったソクラテスも偉いと思うし、先の戦争中に「悪法は法にあらず」と言って反戦を唱えて弾圧に抗した人々も偉いと思っている。どちらが正しいかと問われても判らない』と。
現代社会のリアルなテーマではないかもしれないが、人生観としては佐川元理財局長らの生きざまと重なるだろう。
現代社会で後者の選択はストレートにはリアルではないが、前者と後者、どちらが困難な選択かといえば後者ではないだろうか。特に前者に差し迫って「死」が突きつけられていない場合は。
そして多くの場合、真理というものは困難な道の向こうにあるものだ。
熱燗で人生論とアイヒマン
このコメント記事は長いです。
返信削除毎日新聞2017年9月27日 東京夕刊 特集ワイド
今に響くハンナ・アーレント 官僚の無責任、排外主義…
読み継がれているハンナ・アーレントの著作。「アイヒマン論争」の表紙(中央上)には、映画でも繰り返し描かれた、たばこをくゆらす本人の写真が使われている。「全体主義の起源」はNHK教育テレビ「100分de名著」でも取り上げられた
ナチスを生んだ時代にユダヤ人として生きた政治哲学者、ハンナ・アーレントの思想が改めて注目されている。今年は主著の新版が出て、関連書籍コーナーを設ける大型書店も。全体主義と対決したその思想が、なぜ読み直されているのか。安倍晋三政権下の日本社会の現状と何か呼応しているのか。【井田純】
「ツイッターなどでは、手に取った読者から『読みやすくなった』という評価をいただいており、書店でも共感と意欲を持って扱ってくれています」と語るのは、みすず書房社長の守田省吾さん。書簡集を含むアーレントの著作十数点を刊行する同社は今夏、1960~70年代に出版した「全体主義の起原」全3巻と「エルサレムのアイヒマン」の新版を刊行した。その編集作業を担当し、改めて作品を読み返した守田さんは「難民問題や、民主主義が直面している危機など、アーレントの論点が今の世界で起きていることと重なり合っている」と感じたという。
米紙ニューヨーク・タイムズは昨年11月の米大統領選の直前、「うそを超えて」と題したエール大教授の論評を掲載している。トランプ氏の危険性を警告するその文章は、「全体主義の起原」の次の部分を引用している。
<大衆を納得させるのは事実ではなく、でっちあげられた事実ですらない。彼ら自身がその一部となるだろうシステムの一貫性だけを信じるのだ>
客観的事実より、個々人の感情や信念に合致するかどうかが世論形成に影響する「ポスト・トゥルース」的世界を予見していたかのようだ。米国ではトランプ政権が誕生した今年初め、「全体主義の起原」がベストセラーになった。
アーレントが繰り返し力説した「立ち止まって自分の頭で考えること」の重要性を指摘するのは、ちくま学芸文庫編集長の北村善洋さん。同文庫では、「責任と判断」など4点を刊行している。
「情報がこれだけ氾濫していると、起きたことをどれだけ丁寧に吟味できているのか、と考えてしまう。何か事件が起きると、インターネット上などではすぐに議論が百出する。でも多くの人は思考停止して追随するだけ。新しいことが起きれば忘れる、ということを繰り返してしまいがちです」
日本では森友・加計学園問題で安倍政権の支持率がいったん下落したが、いつの間にか「解散風」にかき消されようとしているのはなぜか。アーレントは、ナチズムのもとで「考えなくなった人間がやったこと」を直視し、それについて考え抜いた思想家だった。
日本での「ブーム」につながるきっかけのひとつが、2012年の映画「ハンナ・アーレント」だ。日本でも翌年公開されると、上映館には連日行列ができた。
映画の舞台は第二次大戦後の60年代初め。ナチス政権下で数百万人のユダヤ人を強制収容所へ送ったアイヒマンが、戦犯として裁かれる過程を巡って描かれる。イスラエルで行われた裁判を傍聴したアーレントは、米誌にリポートを発表。その中で、アイヒマンを「残虐な殺人者」ではなく、ヒトラーの指示で動いただけの「凡庸な悪人」と表現したことで激しい非難を浴びる--。
「ナチス政権下では、官僚制度が、既存の法体系ではなくヒトラーの意思をそのまま実現する組織として機能してしまった。結果、アイヒマンに典型的なように、個々の官僚は責任を感じなかった。全権を担っていたはずのヒトラーも自ら死ぬことで最終的な責任を取らなかった。これが、アーレントが考えた官僚制の無責任問題です」。岡野八代・同志社大教授(西洋政治思想史)が説明する。
岡野八代さんはそこに、森友・加計学園問題で指摘された官僚の「そんたく」に通じるものを見る。「安倍さんは『自分は命令していない』と言うでしょう。一方で、官僚が憲法の規定する法にのっとるのではなく、権力者の意向をそんたくして政策を遂行するのであれば、誰も責任を取らない形ができあがる。非常に危険です」。権力者の意思に逆らえば排除され、攻撃される。おとなしく従えば、出世していく。アーレントは、死刑となったアイヒマンをこう描く。
<自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。(中略)完全な無思想性--これは愚かさとは決して同じではない--、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ>(「エルサレムのアイヒマン」より)
もともと岡野さんがアーレントの思想に注目したきっかけは、日本社会の差別構造だった。ここ数年拡大してきたヘイトスピーチ問題との関連で、こう指摘する。「ナチスの全体主義は、いわば『アーリア人ファースト』という物語のもと、ユダヤ人や共産主義者、さらには同性愛者らを抹殺しようとした。自分たちと違う物語を話す存在を認めなかったのです。今の日本と当時のドイツが同じだとは思いませんが、外国籍住民や異なる考えを持つ人たちに『日本から出て行け』と言うヘイトスピーチの姿勢と共通するものがあると感じています」
アーレントは、出自や属性に関わらず、さまざまな立場から意見が表明されることの重要性を説いた。異質なものを排除するのではなく、一人一人が違う存在であることが人間の自由にとっては大切だ、と。「人は、国籍や性別などの属性では何者かはわからない。その人が語ったことや行為によって判断されるべきだ、というのが、アーレントの考えです」
「自分で考え行動を」
岡野さんによると、世界的には冷戦が終結した89年、米国では同時多発テロが起きた01年にもアーレントが広く読まれたという。9・11を機にブッシュ政権が対テロ戦争に乗り出していった01年は、くしくも「全体主義の起原」刊行50年でもあった。
「今、米国と日本の政府が対北朝鮮危機をあおっていることとの共通点を感じます。アルカイダにしても、過激派組織『イスラム国』(IS)にしても、あるいは今の北朝鮮にしても、実際の問題は非常に複雑です。それを『敵か味方か』という極めて単純化した見方のもと、権力者がひとつの物語を作っていく」。研究のため英国滞在中の岡野さんの目には「反対意見を言える場所が、日本社会の中から少なくなってきている」と映る。「現に、野党が求める国会審議の場すら得られない状況が生まれているでしょう。安倍政権下では『共謀罪』法も成立しましたが、政治が心の中にまで踏み込み、身の危険を感じずに発言できる場所がなくなれば、自由はなくなります」
北朝鮮のミサイル発射が続き、全国瞬時警報システム(Jアラート)が鳴る中で、いや応なく不安を感じる人が増えてもいるのだろう。この状況で、解散・総選挙を迎える日本。岡野さんは言う。「安倍さんは勝てると見込んで解散に踏み切るのでしょう。総選挙後も政治状況は変わるかどうかわかりませんが、アーレントは、自分自身で考えて『おかしい』と思う人が行動を起こすことで希望が生まれる、と考えました。どんな権力でも、一人一人の自由を根絶やしにすることはできない、と。だからこそ今、アーレントが読まれているのではないでしょうか」
読ませていただきました。なかなか考えさせられますね。
返信削除「アイヒマン」拝見しました。自分がその立場にあったならばと考えると本当に悩ましいですね。「ヒトラーとナチ・ドイツ」を通読しましたが、読み進むたびにマルチン・ニーメラー師の警句が幾度となく頭をよぎりました。この警句を繰り返す世にしないためにも、今度の総選挙は重要だと思います。
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