2017年3月27日月曜日

百舌鳥古墳群の被葬者

 先日来、百舌鳥古墳群についていくらか語ってきたが、宮内庁によって考古学的調査が阻まれていることや、太安万侶の墓のような墓誌が皆無に近いことから、どうしても正確を期そうとして語ったので、先日私が解説したOB会の皆さん方には歯切れが悪く聞こえたようだ。
 なので今日は、思い切って宮内庁の治定(じじょう)に対する私なりの対案を以下のとおりはっきり言ってみたい。

 1 古市・百舌鳥古墳群に被葬されているとされている概ね5世紀の大王(便宜上「天皇」と呼ぶ)応神、仁徳、履中、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)、安康、雄略の実在性は高いと考える。
 その根拠のひとつは、5世紀後半築造と考えられている埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に象嵌された文字で、そこには「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」に使えた乎獲居(オワケ)臣」が「辛亥(しんがい)年」に記すとして、8代前の「上祖」の名は「意富比垝(オオヒコ・大彦?)」だと述べている。
 辛亥年は471年で、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」とは日本書紀にある「大泊瀬幼武(おおはつせのわかたける)」の雄略天皇と符合する。
 さらには、「幼武」の「武」が宋書で478年に倭王に任命された(倭の五王〈讃、珍、済、興、武〉)の「武」とも符合する。
 さらには、「杖刀人首」である乎獲居」ですらが8代前からの祖先の名を順に名乗っているのであるから、この時期に少なくとも大王家に「帝紀」(系図)が伝えられていなかったとは考え難い。

 2 概ね5世紀の天皇陵は文献上、次のとおりである。
歴代
古事記
日本書紀
延喜諸陵式(905
在位
在位高城説
応神
川内恵賀之裳伏岡
記述なし
恵我藻伏崗陵
270-310
368-407
仁徳
毛受之耳原
百舌鳥野陵
百舌鳥耳原中陵
313-399
410-434
履中
毛受
百舌鳥耳原陵
百舌鳥耳原南陵
400-405
434-437
反正
毛受野
耳原陵
百舌鳥耳原北陵
406-410
437-439
允恭
河内之恵賀長枝
河内長原陵
恵我長野北陵
412-452
439-460
安康
菅原之伏見岡
菅原伏見陵
菅原伏見西陵
453-456
460-461
雄略
河内之多治比高
丹比高鷲原陵
丹比高鷲原陵
456-479
461-483
 上記のとおり、仁徳、履中、反正の天皇陵が百舌鳥に築造されたとなっていて、そのことは肯定したい。私は、この時期に係る記紀の記述が、少なくない粉飾等があるにしても全く荒唐無稽だとは考えない。
 ただし、5世紀に築造された御陵を10世紀に記述した延喜式の諸陵式の記述内容については少なからず首肯できない。
 表の一番右の「在位高城説」とは高城修三氏の説で、継体以前の書紀の紀年(年代)は、原史料の称元法の変更や干支の解釈違いに加え、安康2年以前は「春秋年」(半年が1年)であるとして、それらを訂正した紀年である。

 3 この時期の巨大古墳の全長と考古学上の築造時期は次のとおりである。
   津堂城山古墳208m4C後半
   仲ツ山古墳286m4C末~5C初め(伝応神皇后仲ツ媛陵)
   墓山古墳224m5C前半
   上石津ミサンザイ古墳365m(伝履中陵)5C前半
   誉田御廟山古墳420m5C前半(伝応神陵)
   いたすけ古墳146m5C前半
   大山陵古墳482m(伝仁徳陵)5C中頃
   御廟山古墳186m5C中頃
   市の山古墳227m(伝允恭陵)
   田出井山古墳148m(伝反正陵)5C後半の古い段階
   土師ニサンザイ古墳288m5C後半
   岡ミサンザイ古墳238m(伝仲哀陵)
   前の山古墳190m(日本武尊白鳥陵)
   ※  黄字は百舌鳥古墳群、通常の文字は古市古墳群

 4 百舌鳥古墳群被葬者の考察

 
① 誉田御廟山古墳420m(伝応神陵)の築造時期について疑義が残るが、これは古市古墳群であるので、とりあえず保留しその検討は今後に継続する。

② 別掲「地図」のとおり、3人の「天皇陵」に相応しい、一定時期中(つまり、その同年代)の巨大古墳といえば、築造年代順に、上石津ミサンザイ古墳(5世紀前半)、大山古墳(5世紀中頃)、土師ニサンザイ古墳(5世紀後半)である。
   他の古墳の規模が格段に小さいことと、記紀等が「百舌鳥に3人の天皇陵」と記述していることと上記の地図(実際の古墳の規模)は符合する。

③ 日本書紀の仁徳紀67年に「河内(和泉分離前は河内で問題はない)の石津原に幸して、以て陵地を定めたまふ(自身の御陵の地を定めた)」とあるが、石津川沿いにあるのは上石津ミサンザイ古墳であり大山古墳ではない。
   よって、書紀仁徳紀の記述と考古学上の築造時期からみて、上石津ミサンザイ古墳こそが仁徳天皇陵であろう。

④ 考古学上の築造時期の根拠についてはここでは割愛するが、その順序からして、5世紀中頃築造の大山古墳が仁徳の子の履中天皇陵であろう。

⑤ 同じく築造時期からみて、土師ニサンザイ古墳が履中の弟の反正天皇陵であろう。 
   宮内庁は、土師ニサンザイ古墳を「反正天皇空墓」としているが、実際の全長300m以上の土師ニサンザイ古墳から、全長150m弱の田出井山古墳に改葬したとは考え難い。

⑥ 田出井山古墳は、難波の津から大和に向かう大津道や丹比道の起点付近にあり、特に大津道に沿っていることから、その地理的意味は重いが、百舌鳥古墳群を俯瞰すれば、一般的には陪塚(ばいちょう)の規模の古墳である。

⑦ 延喜式の諸陵式の記述はほとんど採用できないが、反正天皇陵についてそれは田出井山古墳らしき「百舌鳥耳原北陵」としながらも、「兆域東西3町、南北2町」と「東西に長い古墳」としている。
地図のとおり、田出井山古墳は南北に長く、土師ニサンザイ古墳が東西に長いことを付け加えたい。
 
5 考古学上の築造時期
 近年の考古学の発展は目覚ましく、放射性炭素年代測定法、年輪年代測定法で絶対年の近似値が出る。
 前方後円墳は大小にかかわらず一定の規格に沿って築造されており、その規格の変化から築造時期の順序が判明する。
 石棺の加工技術、埴輪、出土品等の製作技術から築造時期の順序が判明する。
 以上に種々述べた古墳の築造時期については、古墳の考古学の第一人者といわれている白石太一郎氏の説によっている。

   年度末なんくるないさと跨ぎたし

6 件のコメント:

  1.  先日、堺市役所展望ロビーの表示やボランティアの説明は、文句なく北から反正天皇陵(田出井山古墳のこと)、仁徳天皇陵、履中天皇陵でした。堺市博物館にははっきりと「伝仁徳天皇陵よりも伝履中天皇陵の方が古い」と展示されていたはずなのにです。
     その上に、田出井山、大山、上石津ミサンザイの三つが南北に並んでいることが天皇陵の証しのような説明もしていました。ちなみに、古市古墳群の伝応神陵や伝允恭陵は正反対に南向きで、伝安閑陵や伝清寧陵は東向きというように縦軸は全く揃っていない。田出井山の縦軸が大山のそれと似ていることは、大山古墳の陪塚であることを語っているのかもしれない。

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  2.  ボランティアガイドの説明中、田出井山古墳の場所が大津道に沿っていて、地方の豪族や外国の使節にアピールするには最適の場所だったというのがあった。
     私も、5世紀ごろの古墳が、倭王の権力と技術を誇示する意識があっただろうという説には概ね賛成する。しかしそれも程度問題で、そういう地理的優位性を以てしても、かくも小規模な古墳を天皇陵だという根拠にするのは認めがたい。

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  3.  巨大前方後円墳の考え方について、全く同時代と思われる巨大古墳が複数ある場合、そのうちの最も巨大で豪華な古墳が天皇陵候補の筆頭であろう。仮に他の時代の天皇陵(候補)よりも巨大であっても、その他の巨大古墳は有力豪族の首長や皇后や皇子や天皇の母の墓であろう。大和には葛城や和珥や蘇我氏の首長墓と考えられる巨大墓が少なくない。

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  4. はじめまして、菊池模糊と申します。
    私は堺市に歴史好きのライターで、百舌鳥古墳群については長く調査してしてきました。
    貴兄の記事には感銘しました。
    私も現・履中天皇陵こそが、仁徳天皇の陵墓だと考えておりますので、非常に共感した次第です。

    つきましては、私の以下のURLにある「仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か?  百舌鳥古墳群と古市古墳群の被葬者の比定」というブログ記事をお読みいただき、ご意見をお聞かせいただけらば嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします。

    https://mokotabi.exblog.jp/29708177/

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  5.  緻密な論理だてに感心いたしております。私などは誉田山古墳(伝応神天皇陵)にも相当疑問を持っていますが、そこまでは頭の整理ができておりません。

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  6. お読みいただきありがとうございました。感謝いたします。
    貴兄の石津原の記述は全く同感だったので、思わず書き込ませていただいた次第です。
    卑弥呼の墓についても書いておりますので読んでいただければ幸いです。
    拙ブログにもお時間のある時にコメントください。
    今後ともどうぞよろしくお願いします。

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