戦前の全体主義・軍国主義の因って来るところを考える場合には非常に重要な指摘だと思う。
ナチスがワイマール憲法下の「民主主義」から誕生したことはあまりに有名だが、古今東西、「私が当選したならば、明日から国民の権利は全廃します」「明日から軍国主義国家にします」と言って登場した軍国主義者はいない。
漱石流にいえば、小事件が積み重ねられてそれは成るのである。
戦前の歴史を反省して平和で民主的な国を希求する場合、この観点は決定的に大切である。
という視点で教育勅語を見た場合、これが国民を思想統制する上で果たした役割は極めて大きい。
それを知ってか知らずか(知っての上であろうが)、教育勅語の片言隻句を取り出して「いいことも書いてある」と語るのは、「歴史家の幣竇(へいとう)」レベルの問題ではなく、それには反動という言葉が似つかわしい。
戦前の学校生活を客観的に確認するには、妹尾河童著『少年H』が判りやすい。
そこには教育勅語はそのまま出ていないが、戦前の学校現場が如何に非合理的なものであったかが記されている。
そして青少年たちは「一旦緩急アレハ義勇公に奉シ」(教育勅語の中枢)と死んでいかされたのである。
ISなどの自爆テロを西欧のマスコミは「カミカゼ」と言うそうだが、そのような狂気が支配的思想であったのが戦前の社会である。
教育勅語は、そういう狂気を生んだ母体である。
海軍発行の慰安所出入証 |
『元日本兵が語る「大東亜戦争」の真相』から拾ってみると・・・、
宮本弘康さんは上官に「試し切り」を命令され、諏訪部明さんは「教育」の名の下に刺突訓練を命令され、今津茂さんは生体解剖を命令され、そうして一般民衆の虐殺、強姦、略奪を繰り返したのが日本の軍隊・兵隊だった。
南京に停泊していた「海風」の照尺手だった三上翔さんは「生きとるやつがおったらいかん」と命令され、甲板から動く者はすべて撃った。
従軍看護婦であった橋本ナツミさんは満州で、兵士が日本人の母親に「見つかるから」と泣く子を川に捨てさせ、挙句は一般居留民の乗った列車を「足手まといになるから」と日本軍が爆破したと語っている。
これがあの戦争のリアルな姿であり、その何処に、友達を信じ、行動を慎み、他人に博愛の精神(勅語の片言隻句)があったというのか。
よって私は、理性ある現代人は、口が裂けても「勅語にはいいことも書いてある」などという寝言を言ってはならないと思う。
単に歴史を学べというよりも、「歴史の学び方を学べ」ということが大事な時代にいるようだ。
春愁や待合室は仄暗し
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