19日に友人の剃髪式の法要があった。
既に得度もし僧侶として法要等も行っていたが、本格的にお寺のお守りをする決意の表れだった。
戦争で丸焼けになったとはいえ600年の歴史を持つ名刹の復興に微力ながら手を貸そうという友人たちも集まった。
そこで私は概ね次のような発言をして宗教法人の役員就任のあいさつを行った。
鎌倉期の宗教改革では諸師が厳しい教義論争をしたが、21世紀の今日は現代風に理解してもいいのではないか。
清水寺の故大西良慶師の言葉に、神さんも仏さんも人間がそう名付けただけのことで、要は大自然の法則のことだというのがある。
大自然そのものに畏敬の念を払い、人間の力の弱さを悟り驕りを戒める、それが宗教(仏教)だと理解したい。
そういう広い気持ちで宗派を問わず求めがあれば法要に応じるお寺にしたい。
具体的には仏教(神仏)に由来する行事を重ねて子どもたちにお寺に触れてもらうことに努力したい。
その基本方向は概ね了承されたように思う。
変なご利益信仰や罰が当たるというような宗教でなく、お詣りに来たそれぞれが心の安らぎを得るようになればいい。
お題目でもお念仏でも南無大師遍照金剛でも、各自が馴染んできたお詣りの仕方でいいではないか。
鬼子母神ゆかりの和手ぬぐいぐらいは作ってもいいように思う。
花まつり、地蔵盆、茅の輪くぐりもいいかもしれない。
何年か後にはデイサービスはどうだろう。
そんなことで社会にお返しができるなら、健康な間は色々関わってみたいと思った。
余談ながら、カール・マルクスは170年以上前にヘルマン・ヘッセの詩を引用して「宗教は悩める者のため息であり・・民衆のアヘンである」と著した。
各時代の為政者はそのアヘンという言葉尻をとらえてマルクス主義を攻撃したが、これは時代的には鎮痛剤の意であり、宗教に対する侮蔑の意味はない。もちろん、当時のヨーロッパにおける宗教状況への批判は当然に含んでいるが、重ねて言うが宗教を否定しているものではない。
そして今現代は、「神を信じる者も信じない者も」一緒に手を取り合って平和で公正な社会を実現するために共に歩むことこそが大事な局面だと私は思う。
なので、いろんな人がいろんな意見を言いあってこのお寺を大事にして行けたら良いなと念じている。
日英上人の剃髪式にて
春うらら青坊さんの門出かな
頭だけは先達のようですが未だ俗世に居ます。(私)-青坊さんがんばれ!
返信削除剃髪式のご参加ありがとうございました。清水寺の故大西良慶師の言葉は重いですね。この言葉を肝に銘じます。そして、今は小さなお寺でありますが、コツコツと着実に進んで行きたいと思います。多くの仲間のご意見を大切にし、より良い社会に少しでも貢献できますれば、望外の喜びです。今後ともご指導の程、よろしくお願いいたします。
返信削除ひげ親父さんには本山の高僧の趣がありました。
返信削除無常さん、諸行無常の意味でしょうか。掲示板と四季報も大事かもしれません。
そうそう、豆撒きも良いですね。
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