22日にOB会の遠足で堺へ行ったが、私には堺市役所の21階展望ロビーで百舌鳥古墳群について解説せよとの宿題が与えられていた。
古代史に興味のない方にも興味を持ってもらえて、かつ最新の考古学や古代史学の成果を踏まえて簡潔に解説するように心がけたが、そのために、いざ勉強し始めると正直に言って手に負えなかった。
例えば、かの有名な大山古墳はほんとうに仁徳天皇陵かという大問題があるのだが、宮内庁が陵墓や陵墓参考地の学術調査はもちろん立ち入りを禁止しているため、限られた材料で著名な先生方が百家百説を唱えられているのが現状で、各種著作や論文を読めば読むほど謎が深まるばかりだった。
そんな中で、百舌鳥古墳群とは直接関わらないのだが、本の中から、古市・百舌鳥古墳群出現の直前の時期の成務天皇(高城修三の紀年説で336年即位から339年)の「縦と横」問題が目に飛んできて、「忘れかけていた宿題」に再び興味が湧いてきた。(ズーっと以前から気になっていたのだが、そのままにしてあった)
問題は日本書紀成務天皇5年秋9月の次のことである。
「・・・・則ち山河を隔(さか)ひて國縣を分ち、阡(たたさのみち)陌(よこさのみち)に随ひて以て邑里(むら)を定む。因りて東西を以て日縦(ひのたたし)と爲し、南北を日横(ひのよこし)と爲す。・・・・」
ちなみに手持ちの『新潮日本語漢字辞典』では、「阡は南北に通じる畦道」「陌は東西に通じる畦道」とある。現在の常識の「南北が縦、東西が横」である。
なのに成務天皇は、「東西を縦」とし「南北を横」と言っている。
考えてみれば、農耕民族にとって大事な指針は太陽と月の出入りであり、北極星ではなかったと考えるとこの話も納得できる。
そういえば、纒向遺跡の住居(宮殿?)は東西に並んでいたし、最古の神社と言われる大神(おおみわ)神社は西に鳥居があって東を向いて拝礼する。
それが後に中華文明を取り入れる中で、今日の「南北が縦」「天子は南面す」に変わって今日があるのだろう。
そこで推理はさらに魏志倭人伝に飛ぶのだが、女王国の倭人が東のつもりで阡と説明したのを聞いた帯方郡の(九州までは既に知っていた)役人が、それを阡だから当然に南と解したことはなかったか。即ち「南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月」である。
こうして宿題は倍々ゲームで増えていく。嗚呼。
なお、倭人伝のこの部分は、「陳寿たちの「日本地図」では九州の南に本州があった(古い地図がそうである)」説。
魏にとって「倭は会稽東冶の東でなければ意味がなかった」説。
「距離の起点が途中から変わっている」説等々がある。
漢文(中国語)に詳しい渡邉義浩先生によると「一大率」は「一人の『大率』」と読むべきで、伊都国に置かれた「大率」が「刺史」のようと書かれているということは、もし九州に邪馬台国があったならば「司隷校尉」のようと書かれるべきであるという緻密な文献解釈もある。
さらに、3世紀半ばの考古学的最新の結果は「ヤマトに全国の土器や金属器等が集積しており、反対にこの時期の九州は明らかに衰退している」ことを示している。
5世紀の古市・百舌鳥古墳群を勉強するつもりが、3世紀に飛んだりして散々な2週間であった。
囀って春眠断ち切る雲雀かな
古代人にとって1日の死(睡眠)と再生(目覚め)の繰り返しの中で、再生の喜びをまず実感するのは東に昇る朝日を拝むことから得られたのでしょう。私の父親の一日の始まりは朝、顔を洗って濡れたままの両手を合わせお日さんを拝むことでした。下から見上げる父親の柏手に飛び散る水滴が光っていたのを鮮明に覚えています。
返信削除ひげ親父さん、コメントありがとうございます。農耕民族にとって大切なのは日の出の方向、砂漠や草原の民にとって大事なのは不動の北極星で、これが中華文明の基礎になったのでしょう。
返信削除朝日を拝んだひげ親父さんのお父さんはまぎれもない大和民族の後裔でしょう。大和や瑞穂の国という言葉を右翼の専売にさせてはいけません。