たしかガウランドが書いたもの |
成務天皇の実在性は各種議論されているが、伝成務天皇陵はしばしば近くの道路からその森を眺めている。
問題はそういう史実のことではなく、日本書紀という公式文書にこのように書かれているという事実である。
つまり、そこでは「東西を縦」と言っている。
そもそも勉強不足の私であるから、縦と横の定義が十分理解できていない。
広辞苑では、①上から下、②前から後ろ、③南北の方向とある。
新潮日本語漢字辞典では「動物では頭と尾を結ぶ線」というのもある。
正確かどうか知らないが「山脈の脊梁」も縦ではないのだろうか。とすると「日本列島を台風が縦断した」というのも「それは横断ではないのか」と感じるときもある。
東西の道路を南北に横切る横断歩道も「前から後ろ」だからだろうか。「縦断歩道では」という疑問を聞いたことがないのはどうしてだろう。
元に戻って、東西南北である。
どこを見ても文献上は南北が縦である。
私がしばしば「日本文化の基層」だと指摘してきた道教も、北極星を頂点にした「南北縦論」で、東アジア共通の儒教文化でも基本的には変わらない。故に天子は南面している。
だとすると、日本書紀の「東西縦論」は例外中の例外と言わなければならないが、そんな面白い記述が日本書紀にどうしてあるのだろうと、長い間モヤモヤしていた。
さて、ウィリアム・ガウランド(ゴーランド)(1842-1922)は、明治政府に招聘されて大阪造幣局の技師となり、在日中に登山をして「日本アルプス」の命名者となったが、それ以上に凄いことは、何百基という古墳を調査して測量図や写真を残し、日本考古学の父とまで言われたことである。
イギリスに帰国後はストーンヘイジの研究と修復でさらに有名になったが、ストーンヘイジが太陽信仰の遺跡だと考えついたのは彼の伊勢の二見ヶ浦での記憶が基だと言われている。
夫婦岩の間から登ってくる日の出を拝む信仰だ。
この話を奈良文化財研究所の講演で聞いたとき、私はハッと目が覚めた。
成務天皇記は太陽信仰だったんだ(そんな常識的なことを今更・・と笑わないでほしい)。
その太陽信仰(崇拝)だが、中国大陸由来の北極星の文化、天子は南面する文化以前の日本の文化が太陽信仰を中心とする自然崇拝、シャーマニズムであったことは疑いない。
大神(おおみわ)神社のように、西から東の三輪山を向いて拝んだり、纏向遺跡の建物が東西一直線に建てられていたりと、いざ例示を探せば枚挙にはいとまがない。東西を向いた古い神社はいくらもある。
冷静に考えると農耕の民が太陽を崇拝し、日の出の方角を大事にするのは理屈抜きで理解できる。
朝、親の世代が日の出を拝む習慣は、少し前までは街で普通に見かけていた。
同様に、江南のミャオ族の神域〈カー・ニン〉も東西を重視していると読んだことがある。
だから日本書紀は、「東西を縦と為」したのだ。
なので、魏志の著者であるエリートの陳寿は、偉大な天帝の思想を知らない倭人に呆れ果てて、「(卑弥呼は)鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす」と苦々しく書いたのだろう。
長い間、日本書紀記述の「東アジア共通の北極星文化」でない文化が不思議であったが、素直に考えれば東西を大事にする文化は前述のとおりよく解る。
ギリシャ神話に対比するまでもなく、日本神話には星がほとんど登場しない。世界中で、アジアの中でも特異だと言われている。
こういう日本文化の特異性はもう少し検討してみても面白そうだ。
やっぱりカギは江南の稲作文化だろう。
虹が東の空にかかっていた。
いつもながら長谷やんの知識と分析力、文筆力に「舌を巻いて」おります。さて、「東西が縦」のブログからふと「魏志倭人伝」に書かれている「邪馬台国」への「行程」南へ水行10日陸行1月と言うのは当時の日本人の方向で実は東への行程であったのではないか。このブログを読ましてもらって思いました。加えて村井康彦著の「出雲と大和」を長谷やんのブログで教えてもらって読みましたが「日本海沿いに水行」の考えに改めて納得しました
返信削除スノウさん、おはようございます。
返信削除邪馬台国の所在地論争をブログにまとめるだけの整理はできておりません。おいおいと書けたら書きたいと思っています。
さて、先日堺の真ん中で旧い濠の発掘調査が行われ、鋳型が発見されました。
場所は堺市熊野町です。熊野小学校もあります。ゆや小学校です。
この地名は明治に湯屋町が熊野町に代わったもので、一般的には湯屋=歓楽街だったと言われていました。
しかし小路田奏直先生は、金屋とか湯屋という地名は鋳物や製鉄に特徴的な地名だと指摘し、そんなことも含めて「邪馬台国と鉄の道」を著しておられます。
小路田説は日本海説です。
魏志や日本書紀を読む場合、歴史書とは極めて政治的な文書だと心して読まなければならないのでしょうね。まだまだ頭の整理はついておりません。