〽 愛宕(おたぎ)の寺もうち過ぎぬ、 六道の辻とかや、 げに恐ろしやこの道は、 冥土に通ふなるものを 〔謡曲:熊野(ゆや)〕
そこは平安京、葬送の地であった鳥辺野の入口にあたっていた六道の辻。東に行くと六道珍皇寺。
原始仏教には六道輪廻の思想があった。
人は生前(前世)の業因によって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの迷界へと堕ちてゆく。その六叉路が本来の「六道の辻」。
(なお、和道おっさんのブログを読むと、この思想こそは現代インドのカースト制肯定のイデオロギーになっていると強く批判されている)
軽いところでは『地獄八景亡者戯』、六道の辻には寄席小屋が建っていて、その表には「米朝近日来演」・・と、かつて米朝が語っていた。
それはそうとして今回は奈良の話。
前々回の記事で興福寺の六道の辻について触れた。
それは52段の石段(大階段)の上に興福寺の五重塔を望む猿沢池東北畔の六叉路のことである。
「ここを奈良の六道の辻という」とは奈良のガイドブックにも載っている。
大階段は善財童子が52人の知識人を訪ねた故事に基づくといわれる52段。
興福寺のお坊さんは「ここが六道の辻で、北へ大階段を上がる道を行けば興福寺つまり天上つまり極楽への道だ」と説いたもの。
それに対して奈良の男たちは、「いや、南西への道こそが極楽への道だ」と反論した。
なぜなら、南西の道の先には奈良の花街があったから・・・というのが話のオチ。
(ただし「奈良の男」以下の話はガイドブックには載っていない)
今も少しだけそういう風情のある店があり、ミュージック劇場や風俗サロンがあったりするが、総じて明るい奈良町(ならまち)として、奥様方のランチと散策の名所になっている。
こう善男善女ばかりでは閻魔様も拍子抜けだろうが、「大仏商法」と評判の悪い夜の奈良まちは大人たちにも拍子抜けで評判は良くない。もう少し繁華街らしくても好い。
牧村史陽の本によると、「大阪では浪速区日本橋東5丁目に東の六道の辻、東関谷町2丁目に西の六道の辻があったが、ともに戦災で失われた」とある。
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