2015年6月26日金曜日

緻密な証明

 テレビで上沼恵美子さんがいつもの亭主ネタで、『昔はお酒を飲んでいたから主人の「縄文が・・弥生が・・」という話も感心して聞いていたが、お酒を止めたこの頃はそういう話がウザい』と語っていて、隣で妻が大きくうなずいていた。

  で、今日の話は弘仁6年(815)のことである。
 (国立)奈良文化財研究所の第116回公開講演会に行ってきた。
 講演は3本あったが、そのうちの1本、都城発掘調査部考古第二研究室長・尾野善裕氏の『「日本後記」を考古学で解釈する―弘仁六年正月丁丑条を中心に―』という講演が楽しかった。
 能力もなく要約するとその楽しさが伝えきれないが、骨子を言えば次のようなことだった。
 「日本後記」といえば古代日本の正史だが、その弘仁6年正月5日の条に『尾張の国本籍の乙麻呂たち3人の見習い技術者が「瓷器(しき)」と呼ばれる施釉陶器生産の技術を習得し終えたため、諸々の見習い官吏に準じて、正式に技術官吏として登用された記事がある。正月早々に末端官吏の登用というかくも些細な人事が何故国史に記録されたのか・・・・ということがテーマであった。
 講師は、田中琢氏ら有名な先人の説を紹介しながら「どうも納得できない」とし、いろんな文献や考古学の成果を引用しながら、「瓷器」の実体と生産地を検討し、その上に平安京跡出土の緑釉陶器から年代と所有者を推定するのだった。
  出土したその場所は、規模からいって高級公卿・親王以上の居住者で、後の文献で棲霞寺とされることから源融(みなもとのとおる)の一世代前の人物、即ち嵯峨天皇の邸宅等であると、これも緻密な証明の上に推定した。
 次に「江家次第」等によると、正月の宮中行事に「供御薬」と一連の行事で「歯固」というものが弘仁年間から始められたとあり、その「歯固」行事の料理類には尾張産の緑釉陶器を用いることとなっていたのであるから・・・。
 その時の緑釉陶器の出来映えが嵯峨天皇の大いに嘉するところとなり例外的な褒賞として3人が登用され正史に残ることとなったのであろう。・・・・ということを、一つひとつ考古学の成果や文献で裏付けながら講義が進んだので、先のブログで「安倍首相の答弁には数学の証明同様の論理展開が必要だ」と書いた私としては、その対極のような論理的な講義に感動し、帰ってから妻に「そもそも弘仁六年に・・」と伝達、復命したところである。
 最後に講師は「オマケの想像」だというのだが、この件の黒幕は弘仁3年に尾張介、弘仁7年に尾張守となった滋野家訳(しげのいえおさ)で、官僚としての手腕とともに尾張における唐物に匹敵するようなハイクオリティーの緑釉陶器の生産実現が唐物好みの嵯峨天皇に評価されたのではないかと結んでいる。
 上沼恵美子さんではないが「そんな話のどこが面白いのか」と問われると答えはないが、国会での首相や官房長官発言や、先の大阪市の住民投票時の橋下市長発言のように非論理的で扇動的な発言ばかりが社会で目についた今日この頃にあって、一見、典型的な文系のテーマであっても、このように種々のデータで検証、証明しながら仮説を厳密に証明して行く講義は一服の清涼剤の感がした。
 骨子をまとめすぎたのでこの感動が伝わらないのが口惜しい。

2 件のコメント:

  1. このブログで思い出してY美術館の講演会のレジメを引っ張り出しました。7年前でした。
    講師は同じ「尾野善裕氏」でした。「日本人と茶碗-唐物から和物へー」と言う題でした。嵯峨天皇は喫茶と中国趣味が好きだったとの出だしでした。要するにお茶好きの天皇と中国の磁器の茶碗から延喜式の茶碗への変遷の話であったようです。言いたいのはついこの間の講演会と思っていたのがあれからもう7年も経っている時間の早さとレジメを見ても私の頭には何も残っていないボンクラを改めて実感したことです。

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  2.  「喫茶と中国趣味の嵯峨天皇」というところがミソのようですね。
     私はスノウさんが7年前の講演を思い出されたことに驚きです。
     で、オマケのオマケを追記します。
     延暦18年10月25日の太政官符などから見て、当時の末端官吏には調・庸が免除されていた。だから、現代的感覚からは木端公務員かもしれないが、それは充分褒賞に値する特典だった。・・・ということを、独立行政法人だけど、しっかりと給料から税金を天引きされている、しがない公務員もどきからは何とも羨ましいと語られたくだりでは、大声で私は笑いました。

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