お釈迦様の涅槃図に描かれている、つまり涅槃経に書かれている沙羅双樹は熱帯性の木で日本にはないと言われている。ただ、佐賀県小城町の清水観音には鍋島公がインドから取り寄せた木が奇跡的に生育しているとの情報もあるが、まあ、普通には日本列島にこの木は生えていない。
だから・・・、困った?お坊さんたちがそれに似た夏椿を沙羅の木、沙羅双樹と呼んでお寺に植えてきた?・・と、私は推測している。
平家物語の作者が知っていたのもこの「夏椿である沙羅双樹」である。
白く清楚な「一日花」だから、朝に咲いたと思ったら夕べには落花する。
故に、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・との平家物語のあまりに有名なイントロは、この木を知ると文句なく納得させられる。
ところで、夏至というのは冬至や春秋のお彼岸ほどには行事がないので、梅雨の一休みに妙心寺東林院に行ってきた。
沙羅の庭は見事な落花で、そのはかなさが胸を打つ・・(といいたいところだが)それどころでない賑わいで、抹茶つきで1600円の拝観料に大勢の観光客が納得しているようだった。
と言ってしまうと身も蓋もないから補足すると、庭を鑑賞している最中に「音もなくポトリ」というのも変だがポトリと落花する瞬間は無言のお説教のように感じられ、心の中でべんべんと琵琶の弾かれる音の聞こえた気がした。
さて、この私は、仏教の無常観などとは関係なしにこの木を育てたいと庭に植えたことがあったのだが、結構立派な木であったのに、二度も枯らしてしまったという、少々恨めしい想い出がある。
きっと、世俗の垢にまみれた私を沙羅双樹の方が忌避したのだろう。
この歳になって、ようやく私も諸行無常の断片が解りかけ始めた気になっているが、だからと言って、首相や市長に「盛者必衰の理(ことわり)」を教えてあげたいなどと思うことは「まだまだ悟っていない」証拠以外の何ものでもないのだろうか。
私は無常観を、「実践しないことの言い訳」に使ってはならないと思っているが・・・。
沙羅双樹を前に東林院の雲水も「無常を自覚して正しく生きよ」と語られていた。
と、偉そうに書いても言い訳だらけの有言不実行の日々、 喝!
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りをあらはす。おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき人も遂には滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。べんべん
返信削除これを聞いて安倍氏や橋下氏を思い浮かべない人は古典の読解力で落第だろう。
今日昼の「沖縄慰霊の日」で高校3年生の男の子が「みるく世(ゆ)がやゆら」という詩を朗読した。「今は平和でしょうか」という意味らしい、旋律を交えた朗読は心にしみた。参列した安倍首相の心には届いただろうか?TVに映る顔は「心ここにあらず」という感じだった。祇園精舎どころか慰霊の鐘の音も聞こえなかっただろう。
返信削除24日の新聞でその詩を見ました。
返信削除いい詩です。
私たちはともすれば怒りの声で共感を求めようとしますが、もっと、心から心へさざ波のように声が伝わる語り方に務めなければならないのではないでしょうか。
そのためには、そういう心の豊かさが求められているように感じます。