2015年6月18日木曜日

アイヒマン論争


  大阪市住民投票の頃から気になっていた『ハンナ・アーレント』について、写真の新書を読んだ。
 カバー裏には、『全体主義の起源』『人間の条件』などで知られる政治哲学者ハンナ・アーレント(1906-75)。未曽有の破局の世紀を生き抜いた彼女は、全体主義と対決し、「悪の陳腐さ」を問い、公共性を求めつづけた。ユダヤ人としての出自、ハイデガーとの出会いとヤスパースによる薫陶、ナチ台頭後の亡命生活、アイヒマン論争――。幾多のドラマに彩られた生涯と、強靭でラディカルな思考の軌跡を、繊細な筆致によって克明に描き出す。とあったが・・・、
 その中で、やはり私が気になっていたのは「アイヒマン論争」だった。
 1960年5月にアルゼンチンで逮捕され、イェルサレムで開始された元ナチ官僚アドルフ・アイヒマンの裁判について『ニューヨーカー誌』に発表されたアーレントの『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』からそれは始まった。
 以下引用、
 第1回目の雑誌掲載直後から、アーレントはそれまでに経験したこともない激しい非難と攻撃を浴びた。彼女は自分にはその法廷がどのように見えたかを語ったのだが、それは許されざる見解だった。彼女は、裁判長のランダウ判事が「被告が告発され弁護され判決を受ける」という法廷にあるべき「正義」に仕えていたのにたいして、「裁判全体の見えざる舞台監督」であるイスラエル首相ベン・グリオンが検事長ハウスナーをとおして展開しようと意図していたのは、「反ユダヤ主義の歴史」であり、「ユダヤ人の苦難の巨大なパノラマ」という「見世物」であったと指摘した。さらにはイスラエルでユダヤ人と非ユダヤ人の結婚を禁止する法律があることを批判した。また、ナチ官僚とユダヤ人組織の協力関係に言及した。アーレントの言葉は、ユダヤ人にナチの犯罪の共同責任を負わせ、イスラエル国家を批判するものと受けとめられたのである。
 ・・・・・・・さらには、アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男と叙述した点である。紋切型の文句の官僚用語をくりかえすアイヒマンの「話す能力の不足が考える能力――つまり誰か他の人の立場に立って考える能力――の不足と密接に結びついていることは明らかだった」と彼女は述べた。無思考の紋切型の文句は、現実から身を守ることに役立った。こうしたアーレントの見方すべてが、アーレントは犯罪者アイヒマンの責任を軽くし、抵抗運動の価値を貶め、ユダヤ人を共犯者に仕立て上げようとしていると断言された。
 ・・・・・・・アーレントはナチの先例のない犯罪を軽視しているわけではけっしてないが、ナチを断罪してすむ問題でもないと考えていた。また、加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレントは全体主義の決定的な特徴ととらえていた。アイヒマンの無思考性と悪の凡庸さという問題は、この裁判によってアーレントがはじめて痛感した問題であった。
 以上、ブログに引用するには長くなりすぎるのでこのあたりで終了する。
 要は、現代社会では官民を問わず内在している「企業社会内の不正義」に関わって、「私は職責上の仕事をしただけだ」「私にそれを覆す権限はなかった」「私の職責なら誰もがこうしただろう」「誰もがあの時代、多かれ少なかれそれぞれの位置で同じようにしていたのでないか」というアイヒマン的な反論に斬り込まないなら、アイヒマンを処刑しただけでは問題は解決しないという問題提起のように私はとった。このテーマは非常に現代的なテーマであろう。(アーレントは決してアイヒマンを許していないので念の為)
 さらに補足的に私がアイヒマン論争から感じたことは、世の中の善悪はそんなに単純ではないということでそういう冷静で本質に迫る議論が大切なこと、そして「指示待ち人間」という言葉に代表される思考停止の持つ罪の深さである。
 となると、その罪は、政治の世界だけでなく各種市民運動の中にもありはしないか。
 「そんなのはこうだよ」とバッサリと斬って捨てるような「議論なき運動」が、国民的な幅広い運動に発展するようには思えない。(これは余談)
 話の本筋は、空気のようにどんよりとした同調圧力に市民はどうあるべきかという問いかけだろう。

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