2015年6月20日土曜日

実学の〇〇

  電車の中に大学の広告がよくあるが、「実学の〇〇大」というようなキャッチコピーを見るたびに私は「専門学校かい」と心の中でチャチャを入れていたが、そういうキャッチコピーは私立大学だけでなく文科省のホンネでもあるらしい。
  事実、文科省は国立大学(国立大学法人)に対して、文系の学科を廃止して実学に特化せよと通達(指示)をした。指示に従わなければ予算で報復されるのだろうから、そうなっていくのだろう。
 私はというと、法律の条文を読む場合でも、どちらかといえば数学の証明問題のような理屈が好きで、そういう理屈抜きで情緒的に語るのを好きではないが、そして、こういう大学教育のあり方についてコメントするような知識を全くと言ってよいほど持ち合わせてないが、それでも私なりにこれは重大問題だと感じている。
  例えば、・・・本論の前に、文科省は先に国立大学に日の丸掲揚と君が代斉唱を指示したが、「日の丸掲揚・君が代斉唱強制の是非」を議論したり研究するのが大学ではないのか。そのことに思いが至らない文科省に学問を論じる資格があるのだろうかというように。
 さて本論だが、科学技術の成果は地球を何百回と破壊できるほどの核兵器を作りだした。
 遺伝子、医療技術は人造人間が可能な段階に近づいている。
 経済学の主流はグローバル経済に勝ち抜くためにということで大量の生涯非正規労働者を生んでいる。
 それらが複合して、地球環境が変動して異常気象が頻発している。
 このように、そういう学問や技術の成果?が国民の幸福とは反対に作用し、社会や個々人の人生を崩壊させている現実があるが、その問題に解を出すのは狭義のその専門分野の学問ではなく、そのことを問うのが文系の学問だろうと私は思っている。
 国会における首相の答弁を聞いていると全く答弁になっておらず、首相の脳に例えば数学の証明のような理系の思考方法を期待したいが、よくよく考えると彼はあえてはぐらかし、証明なしの断定を振りまいているのであろうから、やはり道徳教育?が一番欠けているのが首相周辺だと思わざるを得ない。それを指弾するジャーナリズムにも文系の教養は大切だ。
 社会の正義だとか真理の探究の対極にあるのが現代社会では「効率」という言葉だろう。
 効率至上主義の克服こそが現下の課題ではないだろうか。
 だとすると、文科省から「くその役にもたたん」と馬鹿にされている全国の文系の先生方は、現代社会に異議申し立てをしないのだろうか。
 『国立大学改革亡国論「文系学部廃止」は天下の愚策』と明解な内田樹先生等の声しか聞こえてこないのは寂しい。
 で、写真の『古典不要論への反撃!?』だが、これは万葉学者上野誠先生が前述のテーマとは関係なく著されたものではあるが、その一節にはアンナ・ハーレントのアイヒマン裁判も登場し、幅の広い読書の大切さを痛感させてくれている。
 氏は述べている。私は、たとえ古典学者であっても、自らの生きている今を語る義務がある、と思う。と・・

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