2015年2月16日月曜日

古代史の魅力

  1月27日に考古学者・古代史学者水野正好先生の訃報に接して記事を書いた。
 水野正好先生は元興寺文化財研究所所長でもあった。
 元興寺文化財研究所とは、出土品等の文化財の保存処理にあたる民間では唯一の機関。
 そして、1978年に「100年に1度の大発見」といわれた埼玉(さきたま)稲荷山古墳出土の錆びついた稲荷山鉄剣の金象嵌の銘文を発見したことでも有名である。
 解読に合流した元奈良文化財研究所の田中琢先生の本などを読むと、このあたりは論文というよりも日記というかドキュメンタリータッチで当時の興奮が伝わってくる。
 そもそもの作業の最初に「もしかしたら?」とX線写真を撮ったのは西山要一先生で、ずーっと後には、2月12日の記事にある法善寺の火災痕から河島英五の描いた壁を剥ぎ取って保存処理をした文化財保存学の先生。
  さて、古代史好きの皆さんには今更というほど有名な話になるが、この鉄剣の銘文がなぜ100年に1度の大発見かというと・・・・、
 まず読み下し文を白石太一郎先生の著作から引用すると、・・辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名は、カサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を佐治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾奉事の根原を記す也。(※七月中は七月にの意。寺は役所の意)
 このヲワケの臣が古墳の被葬者か、被葬者に鉄剣を与えた者かは異論があるが、考古学的に5世紀後半に制作されたと考えられる鉄剣に、「自分はワカタケル大王に仕えた」「自分の8代前の祖先はオホヒコだ」と書いていて、西暦471年、日本書紀の記す大泊瀬幼武(オオハツセノワカタケル)天皇=雄略天皇(宋書にいう倭の五王の)に仕え、古事記の崇神天皇(初国知らしし天皇)の段が北陸道を会津まで遠征したと記す大毘古命(オオヒコ)が上祖だと言っているのである。
 (「そうは読まない」という説もあるが、おおむね定説とされている)
 戦前の、神話を史実として教えた皇国史観の反省から、戦後の民主的な学者や教育者の多くは、古事記や日本書紀を「全く史実とは遠い夢物語だ」と鼻にも掛けずにきたが(私なども100%そのように信じてきたが)、「記紀には史実も反映している」「記紀を考古学等で検討する余地がある」となった画期的な発見とされている。
 このため小笠原好彦先生などは、オホヒコ(大彦)と一緒に四道将軍であった武渟川別(タケヌカワケ)、吉備津彦、丹波道主も実在したし、オホヒコの後裔を称した阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫國造、越國造、伊賀臣も実在したであろうから、考古学の成果でその氏の長の墓(古墳)を検討することも大切で、そこを「記紀は信用ならぬから検討しない」というのは学者・研究者として逃げているのでしかないと言い切っている。
 このため私は、それ以降、関係する本を積み上げて悶々とした日々を送っている。
 が、これが実に楽しい。

1 件のコメント:

  1.  奈良県立図書情報館で【図書展示 考古学者 追悼 水野正好氏逝く】という企画があった。
     「関西弁の楽しい語り口の講演で人気だった水野氏は、1934(昭和9)年大阪市生まれ。大学卒業後、滋賀県、大阪府の遺跡調査を担当し、当時、爆発的に急増した埋蔵文化財調査の体制をつくりあげられました。その手腕をかわれ、文化庁の埋蔵文化財調査官を務められた中では、道路等の工事に関わる遺跡調査で、道路公団へ工事変更を提案するなど各地の遺跡保存・保護に携われるなど、大きな活躍をしてこられました。・・・・氏の遺された論文等著作は250以上になります。」とのこと。

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