奈良県立橿原考古学研究所付属博物館へ行こうと近鉄畝傍御陵前駅で下車をしたら、駅前に「おおくぼ まちづくり館」への道案内の矢印が目についた。
薄い記憶によると、もしかしたら2月12日の記事に書いた「洞(ほうら)部落強制移転」の史料館ではないかと、どこかでそのように読んだ気がしたので、行き当たりばったりで行って見ることにした。
行ってみて判ったのだが、その地こそが洞(ほうら)村の強制移転先で、洞(ほうら)村の生業や移転問題を展示している史料館だった。
そして、移転問題の展示も読み、説明も聞き、ビデオも見たが、大正、昭和のこととはいえ、史実はなかなか霞がかかった感じがした。
というのも、そこで購入した本にも「天皇(制)による洞部落強制移転」とは書かれてはいるのだが、表層的には「識らず知らずの間に御陵の尊厳を冒するに至るなきや・・・今回住民あげて他に転住し、地域全部を御料地もしくは神苑地に・・・相当御下賜金を得て、献納いたしきことに・・・」と、村の方から「願書」が提出されて進行しているからで、それは単に強制を隠ぺいする姑息な手段であっただけでなく、「この機会に念願の部落の改善」を図ろうとした「融和運動」でもあったようだ。
その本には、本村との再合併を通して洞(ほうら)村の改善を考えた村の指導者たち、神武天皇陵の拡張を考えていた政府・宮内省、洞(ほうら)村の移転を促す差別主義的な民間の動き、融和運動の全国的指導者の運動等がひとつに合わさって起こった出来事だと書いてあった。
結果は、残念ながら土地は狭くなり御下賜金はインフレで相当目減りし、新しい土地でも露骨な差別に苦しめられたと言われている。
やはり本質は、そこの「民間の動き」に露骨に示されたような、・・初代天皇の神地、聖蹟を見下ろす神山に穢多村があり、その土葬墓が存在するのは言語道断・・との主張に基づき、故地から抹殺されたものだと思われる。
事実、移転反対者には警官が説得にあたったり、土葬墓の移転に際しては「一片の骨さえ残すな」と警官監視の下に掘り返されたとか・・・・。
郡長の文書にも、「特に神武御陵兆域を眼下に見るの地位にありて、恐懼に堪えざること」と正直?に述べられている。
帰りに、見当をつけて旧洞(ほうら)村と思われる方向に山道を入ってみた(下の写真)が、行き当たりばったりの探索ではこの目でその痕を確認することはできなかった。
正確に言えば、途中でぬかるんだ小川のようなところを越えるのをズック靴のため諦めた。ハイキングシューズなら行けただろう。(後で確認したら、この道?で間違いはなかった)
資料では、共同井戸の跡が残っていたり、丸山の地には「宮」と彫った石柱が今も建っているらしい。
引用した文書に蔑称があったり、ここが移転先だと書いたりしたが、この地の現在はそういう事実を乗り越えて現代の「まちづくり」を進めてきたらしいので、そのようにこの記事でも記述した。記事の趣旨が不当な差別を告発している立場であることはお判りいただけると確信している。
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