事実を正確に知りもしないで論評するのは避けなければならないのだろうが、ぼや~っとテレビのニュースから聞こえてきた程度の事柄について、独り言を言う。
ニュースは、産院で取り違えられた60歳ぐらいの男性が産院に損害賠償を訴えていたものが一定程度認められる判決が出たというものだった。
確かに、その歳になって実は実の親子ではなかったと判ったショック、そのときには実の両親はもう亡くなっていたというショックは慰謝料に値すると同情する。
しかしニュースは、男性の訴えの主張として次のように述べていた。
「育てられた家庭は貧しく進学もできなかったが、実の親の家庭は裕福でその子供たちは進学もできていた」と。
なるほど、民事訴訟の稼得できたであろう収入の差が「取り違え」によって発生したというのだろうが、ニュースの続きを聞く限り単純にそうではなく、私には「実の両親の裕福な家庭で育てられたなら得られたであろう幸せを償え」と言っているように聞こえた。
というニュースを聞きながら、私は何か釈然としないものを感じたまま今日に至っている。
重ねて言うが、私は事実そのものを正確には知っていない。だから、私の抱いた印象が誤解かもしれない。しかし、とりあえず私の抱いた印象で感想を続けたい。
私が心の中で抱いた疑問は次のことである。
第一は、「幸せ」とは何だろうということで、裕福な家庭の子は幸せで、貧しい家庭の子は不幸せなのだろうかという疑問である。きれいごとを言うな。そんなのはそうに決まっているではないか。少なくとも幸せになれる確率は何倍も違うのが現実ではないか。・・・という声は知った上で、何かが違うという思いが私には残る。
例えば、裕福な家庭に取り違えられた子の方が、ある種上流階層にある学歴社会に落ちこぼれないようにと駆り立てられた「失われた青春」や、一流大学を卒業して一流企業に就職して心を病んだ多くの例のごとくになって、「私は裕福な家庭に取り違えられたことによって不幸せだった。」と訴えればそれは通らないのだろうか。
男性は非常に苦労されたようでそのことを茶化す気などは全くないが、「幸せの代償」というようなものを全て貨幣価値で論ずることが正しいのだろうかと私は悩む。
第二は、育ての親のことがほとんど論じられていないことが気にかかる。「感謝している」とのコメントはあったようだが。
育ての親は、早くに母子家庭となって生活保護を受けていたという。そこまでして育て上げた育ての親は、「私を幸せにしなかった親」なのだろうか。
もし裁判所が彼の「不幸」を認定するのであれば、その論理の帰結として、貧しさゆえに進学を断念する子が生じないよう、即時、国家が憲法の保障する健康で文化的な生活を保障するよう指摘し、真の被告は国家であることを宣言すべきだろう。
それにしても、「幸せ」を裁くことができるのだろうか。結局私は解からない。
私は青春時代、「貧乏人のぼんぼん」とあだ名されていた。
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