2012年7月11日水曜日

こうつと大学は介護民俗学

 
平成24年お正月の想い出
  ここ2年ちょっとの間の実母と義母の介護の現実から私が経験的に学んだことを、「老朗介護」等のラベルでブログ上に何回か書いてきた。
  例えば、最初は半分は思いつき程度の気持ちだったのだが、昔の上海の写真や奈良の写真を持参して話してみたり・・・、
  母の曾孫の名前から無意識的に始まった「夏は来ぬ」の合唱に驚いてから、いろんなジャンルの古い歌を何枚も印刷して持っていって歌ったり・・・、
  その都度、母や周囲の入所者の目が輝くのが判ったから、それまでの「ただの面会」から「もしかしたらこれも介護」へと私の意識も実践的に変化していった。。
  後にはそれらは、回想療法と呼ばれたり、音楽療法と呼ばれたりするものの一部であったり亜流であったりすることが判って自分自身少し驚いた。
  感想を言えば・・・、立ち読み程度の知識しかないので間違っているかも知れないが、 専門家に言わせれば、回想療法も音楽療法ももっと体系的なものであり、マニュアルに沿って行なわれるものらしい。しかし私は、そういう専門的な文章に出会 うたびにものすごく大きな違和感を覚える。〇〇療法論を知らないと介護はできないの?資格のある人は立派な介護が必ずできるの?というように・・・。
  例えば実母のときの音楽は、同じテーブルの数人がバラバラに別々の唄を歌ったりしたのだが、専門家に言わせれば「そんな音楽療法はない」ことになるのだろうが、私が帰るときに何人もから「楽しかった」「また持ってきてね」と言われたものだった。
  老人介護と言っても間違ってはいけないのは、日々それは生活であり人生なのだから、人はマニュアルに沿って生きているわけではないのだと、私は確信している。
  そんな経験の中で、あえて言えば回想療法の一部分なのかも知れないが、古い言葉や、農作業や、祭り等々の思い出を「教えてもらう」時間を『こうつと大学』と自称して重ねてきて「老人施設は民俗学の宝庫である」と、ちょっと感動しながらブログに書いてきた。
  そうしたら、先日、朝日新聞に大きなスペースを割いた六車由美氏の同様の大きな見出しを見つけて、「私の思いはあながちピント外れでもなかったんだ」と楽しくなり、早速著書の「驚きの介護民俗学」を購入した。
  著者は、もともと大学で民俗学を教えていたが今は介護の仕事についている両方の専門家である。もちろん、無手勝流の家族介護者とは視点も異なるが、著書の端々に「そうやそうや」という共感が沸き起こった。
  私は、高度成長、バブル景気、不況等々の資本主義社会を(に)生き抜いてきた(翻弄されてきた)都市の家族介護者に、戦中、戦前の記憶を持つ親たちが御存命なら、親たちの民俗学の頁を今すぐ開かれんことをお勧めする。
  こんな楽しいことを、どうしてもっと早くに気がつかなかったのかと悔やんでいる。
  「ひとに尋ねられている」「頼られている」と思ってもらうこと以上に効果的な老朗介護はないのではなかろうか。

2 件のコメント:

  1. そういえばテレビから由紀さおりさんの「ふるさと」が流れた時母(93歳)がハミングしていたのを思い出しました。私が歌うのを母は調子っぱずれというので母の前では歌ったことがないし歌うのは自信がないがCDでも持参して流してみるのもいいかも解りませんね。いい話を教えていただきました。

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  2. !yukuriさん コメントありがとうございます。私の経験では、CDは所詮CDでした。
     「お富さん」の歌詞を渡して当方が鼻歌を歌うことから世界は始まりました。
     よかったらブログアーカイブから古い介護関係のブログを斜め読みしてください。
     ちっぽけな経験ですが、他人の理論や文献からではなく、実際の日々の驚きや試行錯誤から自分自身が学んだ経験です。

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