2012年1月9日月曜日

よしの よく見よ

   元日に子供たちとその伴侶たちを前にして年頭の「訓示」?をしたのはよかったが、「お父さんの今年の抱負は何ですか?」と逆に聞かれて言葉に詰まったのは我ながら情けない。
 だから・・・というのではなく昨年から予定していたことだが、日常雑務に埋没しないよう、7日に上野誠先生の初講義を夫婦で受講してきた。

同じ教室の講義風景
ネットから
 「こんな正月早々、しかも3連休の初日に勉強しに来るとは変わり者ですね」というような先生独特のジョークから始まった「よしの よく見よ」と題した吉野と万葉集に関わる講義であったが、内容は『いわゆる「天子即神思想」を疑う』というサブタイトルの、非常に内容の深いものだった。
 その要約は書かないが(書けるほどの理解と整理が出来ていないが)、先生が師と仰ぐ折口信夫は、「大君は 神にしませば」を、万葉学者の99.9%が述べているような「天皇は神であられるので」ではなく「天皇は神のような人であるので」(神が神のような仕事をしても歌にはならないの意)としていることや、昭和17年頃、文学報国会事務局長久米正雄が満州国皇帝溥儀を新聞にアラヒトガミと書いたことが「不敬」(アラヒトガミとは昭和天皇ただ一人の意)として糾弾され万事休したときに、折口が、その当時の時代の『経典』的な扱いをされていた万葉集を引いて「住吉の神もアラヒトガミとされている例がある」と反駁し久米の窮地を救った話を熱く語られたのには感激した。
 総じて浮世離れをした勉強(万葉学)ではあるが、世の中に、なにやら戦前の「不敬」問題に似た、内橋克人氏流にいえば「頂点同調主義、熱狂的等質化現象」(うっぷん晴らし政治)や、グローバリゼーションに打ち勝つためにと社会の管理・統制をヒステリカルに指向する主張の台頭を見るとき、折口学には、なかなかに時代に噛み合った教示があるようにも感じいった半日だった。
 ちょっと澄ましたブログになったが、古文も折口学もほとんど知らずに知ったような感想を書いて恥ずかしい。

1 件のコメント:

  1. !11日付け読売朝刊文化面に『辞世の歌に万葉人の「記憶」』と題した上野誠先生の大きな記事が掲載された。
     磐余(いわれ)池の堤の発掘と大津皇子(おおつのみこ)の歌について・・・。
     先生は最後に「今回発掘された堤は、悲劇の皇子絶唱の舞台として、これに勝る舞台はなかった。」と結んでおられる。

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