紀元前660年とは縄文晩期・弥生初頭の時代にあたり、考古学的には大和(現奈良県)に国家形成の遺跡は存在しない。纏向遺跡でさえ後2世紀末以降である。
また、根拠とされる日本書紀によると初期の天皇(当時は天皇という称号はなかったが)の年齢には100歳を超える天皇が少なくなく、出現期古墳の代表である箸墓古墳は考古学的には紀元後3世紀中ごろとされている。
先日テレビで平安京の地図を説明していたが、当時の地図には左京には多くの貴族の邸宅や寺社が書かれているのに、右京には何も書かれていなくて、「人家ナシ」とされていた。
ところが、発掘調査では多くの人家が見つかっている。つまり、貴族の邸宅以外は「人家」でなかったわけであるから、文献史料というものは十分に検討が必要である。
以上のとおり、実在が疑問視される神武天皇の陵墓は、他の天皇陵とともに中世には忘れられていたが、江戸幕府の権威付けの意味もあって8代将軍吉宗の頃から、日本書紀や後の文献などを手掛かりに陵墓を探し出し修復することが行われた。
その折、神武陵の候補地としては、神武田説、塚山古墳説、丸山説、水仙塚古墳説などがあったが、結局、神武田ミサンザイとなり、大規模な改修の後今の橿原神宮となった。
古事記の記述の信憑性も大いにあるが、古事記は「白樫の尾の上にあり」とあるので畝傍山の尾根筋でなければならないが、一説では未開放部落の洞(ほうら)村に近すぎたため採用されなかったとの説もある。
それでも、未開放部落が神武天皇陵を山の上から見下ろすのは畏れ多いということで、洞部落は大正時代に根こそぎ移転させられた。
史料ではないが、住井すゑ作「橋のない川」でそのことが感動的に描かれている。
詳しくは、移転先の「おおくぼまちづくり館」で学ぶことができる。
そこでは、歴史は図式的に単純ではなく、部落内からも「これを機に偏見や差別から解放されないか」という運動もあったことが知れる。
それはさておき、このように、神武天皇即位の地なるものは、「不確か」を通り越して、種々歴史の偽造にあたると私は思う。
今日はそんな建国記念の日である。

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