昨日は粽(ちまき)の故事を書いたので、改めて陳舜臣著「十八史略」の該当部分を読み直したが、やはり内容が膨大過ぎるので以下のとおりwikipediaのコピペに戻った。
秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。
当時の楚は、西の秦といかに向き合っていくかが主要な外交問題で、親秦派と東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派があり、屈原は親斉派の筆頭であった。
当時の楚では屈原の政治能力は群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言を受け、王の傍から遠ざけられると同時に国内世論は親秦派に傾いた。
屈原は「秦は信用ならない」と必死で説いたが、受け入れらず、屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の罠に懐王が引っかかり、楚軍は大敗し、大敗後屈原は一層疎んぜられて左遷され政権から遠ざけられた。
秦は懐王に縁談を持ちかけ秦に来るように申し入れた。
屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。
楚では頃襄王を立て、頃襄王の令尹(丞相)として屈原が嫌いぬいた子蘭が着任したため、更に追われて江南へ左遷された。
頃襄王21年(紀元前278年)、秦により首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望し、5月5日の端午に石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。
屈原の強烈な愛国の情溢れる詩は楚の詩を集めた『楚辞』の中で代表とされ、その中でも代表作とされる『離騒』は後世の愛国の士から愛された。
後に5月5日の命日には、屈原の無念を鎮めるため、人々は楝樹の葉に米の飯を五色の糸で縛って、川に投げ込むようになった。これが粽(ちまき)の由来といわれる(あくまで故事)。また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した」という故事が由来であると伝えられている。🔳
相当昔、職場の先輩に中国史が好きな人が何人かいて、よく麻雀をしながら「べきら」「べきら」としゃべっていた。そんなことから『屈原の汨羅入水』は勝手に覚えてしまった。そんなことを五月五日に思い出した。
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