答を先に言ってしまえば、日本文化の伝統を大事にする人は建国記念の日などという薄っぺらい物語に賛同してはならないと思う。
本郷和人著『日本史のツボ』(文春文庫)が説いているとおり、日本文化の出発点であるヤマト王権が「自分たちは何者なのか」というアイデンティティを打ち出したのは、白村江の敗戦と唐による侵略の危機に直面した天智、そして天武、持統の時代である。
具体的には神話に依拠した歴史書編纂だが、冷静に見つめれば同時に、国家の軸となる思想は仏教としていて、いわば神道と仏教を両輪にして国を治めようとしたのだった。
では、天皇家では神道と仏教のどちらが重視されてきたか。本郷和人氏は「間違いなく仏教です」と言い切り、「単純な話、神官よりも僧侶の方が格段に位が高かった。さらに言えば、大喪の儀、天皇皇后の葬儀も聖武天皇から江戸末期までずーっと仏式で行われていた」と指摘している。
つまり歴史を伝統を冷静に見れば、明治、大正、昭和前半の天皇制こそ後醍醐天皇同様日本文化と伝統の異端児だということだ。
明治、大正、昭和前半の天皇制は、このように日本文化のあだ花であっただけでなく、アジアの庶民を蹂躙し、日本の庶民を大量に殺した戦争遂行の為政者だった。
こういう事実を無視して、明治、大正、昭和前半の政治制度を日本の伝統などというのは全く事実に反する非学術的な意見であり、倫理的にも許されないものだ。
そして重大なことは、そういう嘘を土台にして、戦前回帰の憲法改正が現実の日程にまで上っていることだ。
日本の伝統を大切にしたい感情は、いわゆる保守も革新も同じだと思う。
そして、嘘を土台にした主張は良くないというのも同じだと思う。
細かな感情では十人十色であるのは当然として、嘘で固められた戦前回帰の憲法改正反対ではみんなで手を取り合いたいと思っている。
私自身はけっこう神社も八百万の神々も好きである。
しかしはっきり言うが、戦前の国家神道は日本文化の中でもあだ花だった。
神を信じる者も、仏を信じる者も、そして信じない者も、手を取り合って伝統と日本文化を大事にしませんか。
年長の孫はスマホを操って回転ずしのシステム語る
建国記念の日に西名阪を走っていると日の丸を掲げた「右翼」の車列に幾度となく遭遇しました。サービスエリアで軍歌を流している街宣車(バス)に、家族なのか、子供と女の人が乗り込んでいました。これから伊勢神宮へ向かうのでしょうか。どの街宣車にも「尊皇」の入った団体名やスローガンが大書されています。でも、彼らの行動は、今の天皇にとっては「ほめ殺し」のような極めて迷惑なものに映っているのではないか、と思ってしまいます。実は、この前日、古本屋で手に入れた元「一水会」顧問の鈴木邦男氏が著した「愛国心に気をつけろ」という岩波ブックレットを一気に読み終えたので、鈴木氏の思いと街宣車で「天皇陛下万歳!」を叫ぶ「右翼」との「落差」を思わずにいられませんでした。本文中には、現憲法施行に合わせて、サトウハチロウ作、中山晋平曲で「憲法音頭」が作られたとか、「憲法24条知ってるかい」なる歌を守屋浩という歌手が歌っていたことや三島由紀夫の「愛国」についての真意なども紹介されていて、最後に「愛国心を汚れた義務にしてはいけない」と締められています。著者に対するリスペクトの思いを抱いた1冊でした。
返信削除鈴木邦男氏の主張はネットで読んだりしていますが、今の右翼は彼らから見てもどうしょうもなく映っているのでしょう。西部邁氏の自死もそういう絶望だったかもしれません。
返信削除ところが安倍晋三などは自分におべっかを使う言葉が嬉しいのでしょう。そういう右翼に依拠して祖父の名誉回復を狙っています。
ところで、そんな低レベルの右翼の主張がネット社会では大きなフェイクニュースに膨らみ、名護市長選挙などにも大きな影響を与えたようです。そういう意味では、良識ある市民が「鼻で笑って」いるだけでなく、誠実な主張をネット上で開陳すべきだと思っています。ご協力をお願いします。