2013年7月27日土曜日

CMに二言三言

  ラジオでは近頃「生CM」と言うのが非常に多い。
 パーソナリティー(アナウンサー?)等が一人称で、例えばサプリメントならその効果を、パーソナリティー自身が毎日本当に服用しているかのように実感を込めて語るのである。ある意味、テレビCMよりもインパクトがある。
 そして、この生CMの多用というシステムは、パーソナリティーを事実上スポンサーが囲い込む効果をも果たしている。
 かくして、パーソナリティーが一見公平な顔(声?)をして、あるいは、ある種の知識人の顔(声?)をして、広い意味での広告主集団を番組の中で弁護するのである。曰く、「原発廃炉は現実的でない。」などと。ああ・・・・。

 こういうCMに洗脳されずに、冷静に判断を下していくためには、一人一人の理性が大切である。
 そして、その理性は教育によって育まれる。
 だが・・・・・、

  ハイジ「クララ、夏休みだけど勉強してる?」
  クララ「全然してない。」
  ヨーゼフを枕にしたハイジが涙を流して「絶対やってるよ。」

 コマーシャルは、好印象でも悪印象でも印象付けたら成功と言われているから、私などは製作者の狙いにまんまと引っ掛かった魚のようなものだろう。
 要するにこの家庭教師のテレビCMを見て、「ハイジにそんなことを言わせたらあかんやろ。」と不愉快になったのだが、その感情とセットになってCMを覚えてしまったのだから。
 何が不愉快かというとこのCMは、「(受験)勉強ではクラスメートは敵であり、油断をしたら敗けるぞ。」とハイジに言わせているからである。
 甘っちょろい。理想論だ。現実的でない。等々の批判は受けよう。でも、ハイジにはそんなことを言わせたくない。ハイジには理性的な大人に育ってほしい。

 とすると、ああ、何んとCMというものは怖ろしいものなのか。
 そんなことを絶望的に考えていると、ボブ・ディランの「風に吹かれて」がCM画像に重ねて流れてきた。
 そして70年代青年はその曲にメロメロになって、つい「天然水」を買ってしまいそうになっている。
 もちろん、CM画面にはその訳詩は表示されていない。

    ボブ・ディラン Bob Dylan の 「風に吹かれて」 Blowin' In The Wind
    (壺齋散人による歌詞の日本語訳)

    どれほどの道を歩かねばならぬのか
    男と呼ばれるために
    どれほど鳩は飛び続けねばならぬのか
    砂の上で安らげるために
    どれほどの弾がうたれねばならぬのか
    殺戮をやめさせるために
    その答えは 風に吹かれて
    誰にもつかめない

      どれほど悠久の世紀が流れるのか
      山が海となるには
      どれほど人は生きねばならぬのか
      ほんとに自由になれるために
      どれほど首をかしげねばならぬのか
      何もみてないというために
      その答えは 風に吹かれて
      誰にもつかめない

    どれほど人は見上げねばならぬのか
    ほんとの空をみるために
    どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
    他人の叫びを聞けるために
    どれほど多くの人が死なねばならぬのか
    死が無益だと知るために
    その答えは 風に吹かれて
    誰にもつかめない

    
YouTubeは PPM の「風に吹かれて」






2 件のコメント:

  1. 子供の頃は近所の映画館で3本立てのチャンバラに夢中で育った。そして、我が家にテレビが来てからどっぷりとテレビ文化にはまって思春期を過ごした。すこしオーバーに言えば、私という物の組成の大半は、テレビで成り立っている、と云える。その私が言うが映画(制作)の大部分は監督個人の意思で決定される。対して、現在のテレビ番組(制作)は資本の意思で決定される。板垣淑子(NHK報道ディレクター・『ワーキングプア―働いても、働いても豊かになれない』制作)のような人物はいるが、報道番組ですら毒されている。

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  2.  マスメディアの公平性・中立性などはタテマエ中のタテマエだとは判っていても、おかしいことはおかしいと言い続けることが大切でしょう。
     同時に、単なる批判者で終わるのでなく、庶民が手に入れたSNS(ソシャール・ネットワーキング・サービス)というツールを活用して、一人一人が何らかの発信をすることは有意義だと思います。
     「一億総白痴化」を愚痴っていても始まりません。

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