2013年7月19日金曜日

キリギリスを飼う文化

  売らなくなったから買わなくなったのか、買わなくなったから売らなくなったのか、私の生活圏ではキリギリスの売っているのを見なくなった。
 キリギリスが売るほどに捕れなくなったようでもなく、我が家から駅へ向かう歩道周辺の草むらでは炎天下うるさいように鳴いている。
 だからといって「捕れすぎるので」市場価値がなくなったようでもなく、事実、キリギリスを捕ろうとしている人や子供を見受けない。
 要するに、平安時代から愛でられ、江戸時代には大流行していた『鳴く虫を飼う』という日本文化が消滅しかかっているようだ。それはどうしてだろう。(カブトやクワガタは流行っているが)

 鳴く虫を飼う文化というのは、例の右脳左脳のこともあり、世界的には非常に珍しい文化だと言われているが、これもグローバル化なのだろうか、こじつけではないがTPP後の日本文化の先行指標のように思われる。
 
 私の小学生時代は、いわゆる戦後であったから、焼け跡の野原にキリギリスがうるさかった。
 そして、子供たちは貧しかった。
 それでも、夜店などでキリギリスを買い、あちこちの家からその声が聞こえていた。
 だが、鳴く虫を飼って増やすのは難しく、ちょっと飼育に手を抜くと共食いをしていたし、漂う蚊取り線香の煙で殺してしまったりした。
 このようなことを思うのは、ただの懐古趣味なのだろうか。
 近頃は、自民や維新等が日本文化を壊し続け、共産党が伝統文化を大切にしている。
 言葉としての保守や革新には実がない。ひっくり返してもよいくらいだ。

 なお、キリギリスの季語は秋らしいが、私の感覚ではどうしても夏である。
 テレビが「熱中症に注意」を呼びかけているのを嘲笑うようにキリギリスは鳴いている。
 いや、日本文化の衰退に異議申し立てをして鳴いているのかもしれない。
 日本文化の伝統を大切にしようとする方は、真の意味での保守?でもある日本共産党に一票を投じて欲しい。

1 件のコメント:

  1.  お聖さんの本を読んでると、時実新子氏の川柳「行末をはげしく問いぬキリギリス」があった。
     身の行末をあれこれ思い惑い、つきつめた心地にふさがれてゆく。その思いに重ねるには、音も字面も「キリギリス」がぴったり、あとへ退けぬというはまりかたで、新子さんの句はいつもぎりぎりのところで成立しており、待ったなしの気魄がある。というのが田辺評。
     という評を冷やかに納得できるのは、今の生活が少々落ち着いているからかも知れない。

    返信削除