2013年7月25日木曜日

「伸子」の評論について

  以前に古い友人(先輩)から宮本百合子とその作品である「伸子」について、熱く話を聞いたことがある。
  ただ、私は宮本百合子をそんなに読んでもいなかったし、記憶に残った作品もなかった。
  どだい、文学者と議論できるような深い読みができない薄っぺらな感受性しか私は持ち合わせていない。
  それでも、彼がそれほどまでに語るにはそれなりの意味がありそうだと思って「伸子」を読み始めたが、ズバリ、途中で辛気臭くなって投げ出したという体たらくである。
  で、「伸子」を忘れていたところ、彼が執筆した文芸評論が掲載された立派な同人誌が送られてきた。
  2巻にわたる連載で、何はともあれ力作であることは伝わってきた。
 終章で彼の書いた文章を摘んでみると・・・
 これまでの「伸子」論では伸子の愛と結婚についての先進性、先駆性が語られてきた。・・・多くの読者は、それぞれの青春時代にそれぞれの「伸子」体験を経験しているのだ。・・・自分の体験に即してみれば、本当に身近な人々でさえその人と本気で渡り合っていない。表面的で妥協的でその場限りでの交渉である。深い人間理解にはいつの時代でも勇気が必要だ。
 とあった。
 私は「そこまで言うか。」と彼の人生への真面目さにタジタジするばかりである。
 描かれた時代は大正7年から13年。
 そこに現代に通じる「愛の多様性」まで含んでいたというのが彼の指摘なのだが、論評するだけの知識もなく、「そういう見方があったのか」と、ただ新鮮な興奮を覚えただけだった。

5 件のコメント:

  1.  私は何故「伸子」を読むのを途中で放り投げたのだろう。
     決定的な悪人がいず、それぞれが善意で生きているが平穏を得ることができないという真理に共鳴し、小説と一緒に鬱を感じたからかもしれない。
     人生に勇気は必要なんですか。

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  2. 長谷やんのツイートを見ると何故か安堵感を感じホッとします。

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  3.  誤解をされると困るのですが、家系というのも無視できない事実でして、私なぞは、結構世渡りが下手ではないと思っていて、それ故に、知らぬ顔をして、あえて下手な方に下手な方に生きてきた感じがあります。
     そして、いやしかし、いろんな肩書きが取れて丸裸になった今、だんだん「怖いもの知らず」になって、世間が見えすぎるほど見えるようになっているように自惚れています。
     そう、隠居してからが本当の人生だとこの頃実感しています。

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  4. 『伸子』はかなりの作品ですよ。読んでいるうちに夫がだんだんみすぼらしく思えてきて、たまらなくなってきます。何と言っても、夫が布団の中で聖書をいじる場面が秀逸です。

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  5. mykazekさん ありがとうございます。
     私は論議できるようには読めていないので、評論執筆の彼の言葉を借りるなら、「夫・・の人物像も、従来の否定的評価は多様性の中で見直すべきである。」と問題提起しています。
     「これまでの伸子論」を自分の身に引き付けながら見直したという姿勢に私は感心しています。

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