2025年12月14日日曜日

続明日香の天皇陵古墳

    12日に明日香の古墳についての小笠原好彦先生の講義内容の結論だけを書いたが、私自身十分消化しきれていない点が2か所ある。高松塚古墳と束明神古墳である。

 その1 高松塚古墳の被葬者は忍壁(刑部)皇子だと推定されるということについてである。
 壁画の男子群像の一人は(主人のために)葢(きぬがさ)をさしている。葢は深い緑色で太い緑色の組紐の房が垂れているが、時代は下るが養老律令の儀制令ではこれは一位の官人に相当し、親王は紫である。藤原京の後期と推定される築造時期にこの養老令の考え方ができていたかどうか、あるいは劣化していた壁画の作成時の色がほんとうに緑色であったかどうかという不明点があるが、養老元年(717年)に亡くなった左大臣石上(いそのかみ)朝臣麻呂(まろ)は従一位を追贈されている。
 石上麻呂は、710年平城京遷都の際は旧都の留守役と、藤原不比等らによって事実上干されたため、物部一族が薄葬令下で最高の古墳を造ったのではないかとの考えもできる。ただ、いくら従一位追贈といえども明日香檜隈の地に官人が墓を造れただろうかとの疑問もある。

 その2 束明神古墳の被葬者は草壁皇子だという点についてである。
 古墳の築造時期、そして残っていた歯から青年から壮年にかかることが判っていることから、珍しく非常に多くの支持を得ている説である。
 私の疑問点は、持統によって、実力者大津皇子を殺してまでの次期天皇の本命中の本命草壁皇子(岡宮天皇と没後追尊)なら、どうして明日香檜隈のど真ん中(藤原京の中軸線)でなく、遠くはないとはいうものの、明日香とさえ言い難い佐田の地に葬られたのかという点だが、小笠原先生もその点は「持統の怒りを買ったことがあったのであろう」と想像されている。
 図書館にて『懐風藻』を読んでも明らかに大津皇子よりは見劣りのする凡庸な皇子であったようだが、岡宮天皇と没後追尊されるぐらいの皇子にしては立地条件が低すぎる。
 
 これらのことについて、大方のご意見を賜りたい。

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