2025年6月10日火曜日

原発事故高裁判決

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月6日、東京高裁は、フクイチの原発事故について、東電旧経営陣の責任認めず 1審と逆の判断を下した。
1審の東京地裁は元会長ら4人の賠償責任を認め、国内の裁判で最高額とみられる、合わせて133210億円の賠償を命じ、双方が控訴していた。
原告の株主側は、国の機関が2002年に地震の予測についてまとめた「長期評価」に基づき巨大津波への対策をとるべきだったと主張した一方、旧経営陣側は「長期評価の信頼性は低く、巨大津波は予測できず、対策をしても事故は防げなかった」などとして責任はないと主張した。
判決は、『長期評価』は原発の事業者として尊重すべきものだが、地震学自体、未知の領域が多く、運転を停止させて津波対策を講じる根拠としては十分ではない。巨大津波を予測できる事情があったとは言えない」と指摘し、旧経営陣が巨大津波の対策を講じなかったことについて「当時の状況から、津波が襲来するという切迫感を抱かなかったのもやむをえない」として、1審の判決とは逆に旧経営陣の責任を認めず、株主側の訴えを退けた。
これは「大津波が来るような地震の具体的な危険性や切迫性がないと、原発事業者の役員は対策する必要はない」という内容で、原発事故の再発を招くおかしな判決だ。
事実、東京電力が津波対策について話し合った2008年は、柏崎刈羽原発が地震で止まっていて、切迫した状況だった。
現実に戻ると、14年以上続く避難生活で、コミュニティーも土地も、仕事も友人もすべてなくして、孤独でひとり寂しく住んでいる人もいる。ここに目を向けて考えるのが司法の役目ではないのか。
「長期評価」とは、過去の地震などを踏まえて地震の規模や発生確率を予測したもので、専門家でつくる政府の地震調査研究推進本部が公表している。
20027月には、三陸沖から房総沖にかけての地震の予測が公表され、過去400年の間に日本海溝沿いの領域でマグニチュード8クラスの津波を伴う大地震が3回発生しているとして、福島県沖を含む太平洋側の広い範囲で同様の地震が▽30年以内に▽20%程度の確率で発生すると推計した。
そのとき武藤元副社長は2008年、国の地震調査研究推進本部による「長期評価」に基づいて、福島第一原発に敷地の高さを超える最大15.7メートルの津波がくるという計算結果が出たという報告を部下から受け、改めて土木学会に検討を依頼する考えを示したので津波対策が保留された。
もし津波による浸水が本当に起きるかもしれないという危機感を持っていればもっとできることがあったし、海外の原発のように可動式の非常用発電機を置いておくなどしておけば事故にならなかった可能性もある。

さて、司法の場に倫理は無用なのか。長い現役の職場生活の中で実際に悩んだことも多いが、可能な限り被災者のために使える法律はないものかと条文や判例を探しまくったものである。そういう経験からすると、言って悪いが「でもしか裁判官」と見えてしまう。
ヨーロッパには「ノブレス・オブリージュ」という不文律がある。社会的地位にはそれに伴う高い義務があるというものだ。それを大企業の社会的責任と重ねるのに無理があるだろうか。
また私は、古都近くに住んでいるため、多くの宗教者の教えを聴く機会も多い。
例えば2014年発行された「奈良県宗教者フォーラム」編「修験道の真実と未来」の基調講演は「大自然に想定外などない」「政治家は・・自然のほんとうの怖さも知らないで簡単に手に負えるものと考えていたのではないか」と指摘している。
翻って、「「当時の状況から、津波が襲来するという切迫感を抱かなかったのもやむをえない」という判決文はどうだろう。
私はこのニュースを聴いて、非常に哀しい気持ちになった。

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